TETSUYA:THE LAST DAY公開!

男なら危険をかえりみず、
死ぬとわかっていても行動しなくてはならないときがある。

負けるとわかっていても読まねばいけないときがある──

せーのッ!

読まねばー!!!

TETSUYA: THE LAST DAY

収録内容は、各執筆者による
1.ホラー掌編集
2.それでも僕たちは生きている(嫌な思い出レビュー)です。

下記URLからダウンロードできます。ダウンロードキーワードは「shiri」です。
http://www1.axfc.net/uploader/so/3022391

競作企画「卑怯な虎猫」

●企画趣旨
 水面下で活動している我らが時たま浮上して告知するこの企画。趣旨は特になし。「卑怯な虎猫」をテーマにした短篇競作企画です。下記リンク先のpixivで読めます。よろしくお願いします〜。
【オリジナル】「イン・ア・ドリーム・オブ・ザ・デッド」/「KASUKA」の小説 [pixiv]
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=2424195
【オリジナル】「レーナ情報室にて」/「正田展人」の小説 [pixiv]

『平成願虎之巻』田中公威

1.
 昼休みの教室でぐーすか寝ていたら強烈なビンタを十数発張って叩き起こされたあげく、大量の睡眠薬を飲まされた。
 何を言ってるのかわからねーと思うが、俺も何されたんだか全然わかんない。
 わかっていることはふたつだけ。
 ひとつは、俺が眠りに落ちるまであといくらもないということ。
 もうひとつは、四月朔日春夏秋冬(わたぬき・ひととせ)――和式カレンダーから引っこ抜いてきたような名前をしたあの女の頭が完全におかしいってことだ。



2.
 春休みの終わりに、ひどい風邪をひいたわけよ。
 おかげで、俺が神之木東高校三年五組の教室に顔を出すことができたのは、新学期が始まってから十日も経った日のことだった。今から数えることちょうど一週間前ね。
 病み上がりで、多少体がダルくはあったけれど、かつて在りし日の俺は、今現在の俺とは違って、快適な睡眠を邪魔されても、両頬を真っ赤に腫らしても、強烈な睡魔に怯えてもいなかったわけで、相対的に見れば超のつく健康体だったと言えるだろう。
 あ、気分が冴えないのはいつものことです。どこかに、炙って吸引したり、葉巻にしてスパスパやったり、静脈注射するだけでビンッビンに元気になれる魔法のようなお薬売ってませんかねー(ゲス顔)。法律? 倫理? シャブっつったらパンクスの常備薬だろうが! まあ、小遣いは全部、Tシャツのコレクションに突っ込むことにしてるから、財布はいつも空っぽだけどな。覚醒剤どころか、砂糖も小麦粉も薄力粉も買えねえ。貧困ダメ絶対!
 灰色の気分と空っぽの財布を胸に、朝、教室に足を踏み入れた俺を出迎えたのは“え? 誰こいつ?”って感じのクラスメイトたちの視線だった。そりゃそうだよねー。フヒヒ、どうもどうも、お初にお目にかかります、兼坂鉄(かねさか・くろがね)です。
 俺は前日に担任教師から電話で教えられていた自分の席へと移動した。窓際の列、後ろから二番目。いわゆる主人公席ってやつだ。
 真新しい教科書とノートを抽斗にぶちこんだあと、鞄を机の脇にかけて欠伸をひとつ。
 隙だらけのツラで数秒待機してみたけれど、誰も話しかけてくる気配がありません。あれれーおかしいなー。どうして誰も「体調大丈夫?」とか話しかけてきてくれないの? みんなソッコーで俺をいないもの扱いしてるの? それでも町は廻っているの? やばいやばい。この状況、犯罪の――濃厚な犯罪の匂いがするよ!
 でも安心して欲しい。春先はいつもこんな感じだから。
 ぽかーんと口開けて待ってるだけじゃいけないってわかってるんだけどねー。俺が雛鳥プレイしてるあいだに、みんな、それぞれで関係築いちゃうんだよねー。難しいよねー、人生って。しかし今年は体調崩しちゃったってことで仕方なかったと思います。次の機会に頑張りましょうそうしましょう。
 でも――あくまで予想だけど、大学での友人作りって、難易度HELLじゃね? まず制服じゃなくて私服ってのが怖い。その日に着ていくTシャツをどうするか悩んでるうちに一日が終わりそうで怖い。軽く見積もって二百枚くらいあるから、かなりの手間だぜアレ。
 あーこりゃだめだ、手遅れです、ご愁傷様、って頬杖をつきながら窓の外に視線をやって、校門へと続く桜並木の薄桃色を眺めはじめたところで、胸ポケットに入れてあったiPhoneが震えて、メールの着信を知らせた。
 まーた楽天市場からかよいい加減にしろよ三木谷テメエ、って舌打ちしてから確認してみたら違った。全然違った。弟からだった。
 ――弁当忘れたでしょ(^_^;)今から届けに行くから。
 ハングリー精神(物理)の塊である俺が、よりによって弁当忘れるわけないだろうがボケ、って思ったけど、確認してみたらしっかり忘れてた。ボケは俺のほうだった。いやーん。学校に弁当持って行かないとか、肉なしでバーベキューするようなもんだろ、常識的に考えて。それバーベキューって言わねーから。野菜炒めパーティとか前代未聞の慎ましさだから。
 メールの送り主である俺の弟――兼坂鋼(かねさか・はがね)は、俺と同じくこの神之木東高校に通ってる。俺より一つ下の二年生で、俺の弟だってのが信じられないくらいいいやつなんだこれが。そのいいやつ具合は、鋼が俺の弟をもう十六年も続けてるって事実が証明してくれるだろう。俺なら三日でバックレたあげく、いけしゃあしゃあとしたツラで三日分の給料要求してる。
 男も女も、オタクから体育会系からリア充まで、誰にでも別け隔てなく接して、誰も嫌な気分にさせない。かといって馴れ馴れしいってわけじゃなくて、踏み込むべきじゃない一線は心得てる。鋼と一緒にいると安心感があるんだよな。だから自然と周りに人が集まるんだろう。中学ン時、生徒会長選挙に出馬を表明したら、対立候補が応援演説を申し出てきた、っていうエピソードは伊達じゃない。
 対するに俺ときたら、教室ではいつもひとり、大量破壊兵器とか降ってこねーかなーって妄想してるんだからたっまんねーなオイ。体育や英語の時間に「それじゃ二人組作って」って教師に言われた時の俺の表情の死にっぷりときたら、きっと人類の想像を絶する。でもな、いつでも俯いてるから、自分の机の天板の汚れには人一倍詳しいんだぜ?
 これで顔立ちがそこそこ似てなきゃ、誰も俺と鋼とを兄弟だとは思わないだろう。内面に限っていえば、俺たちは泥水と珈琲くらいに違う。どっちがどっちか、判断できるよな? ネクスト・クロガネズ・ヒントとか要らねえよな? どれだけ喉が乾いてても、泥水を啜ろうとするやつなんていやしない。スタバで泥水頼んだら店員さんからぬるーい笑顔浴びんぞ、きっと。
 わざわざ弁当を届けてくれるという鋼に、おうサンキューな、ついでに自販機でコーラ買ってきてくんねえ? ってノーモーションかつナチュラルに乞食レスして、携帯弄ったついでにネットでもチェックしておくか、遺伝子の奇跡こと地上に舞い降りた天使こと小倉唯ちゃんの画像スレが立ってるかもしれないしな、って意識高めに2ちゃんねるブラウザを立ち上げたその時だった。
 机の前に誰かが立つ気配があって、
「兼坂くん――」
 女の声が降ってきたんだ。
「お取り込み中のところ申し訳ないのだけれど、少し時間をいいかしら」
 すげえいい声だなって素直に思ったよ。
 涼やかで。落ち着いていて。気品があって。いつまでだって聞いていたくなるような、そんな声だ。たぶん神話の女神もあんな感じに喋るんじゃないかな。
 見えない手指にそっと顎を持ち上げられるように顔をあげた俺が目にした声の主。
 それが、四月朔日春夏秋冬だった。



3.
 いつか誰かが言ってたっけ。
 四月朔日春夏秋冬っつう女は、たとえるならロイヤル・ストレート・フラッシュなんだ、って。
 誰が・いつ・どこで・なぜ・どのように・そんなことを言っていたのか――4W1hが行方不明だが、彼女は完璧にして最強である、というほどの意味だったんじゃないかと思う。
 同じ柄の10、J、Q、K、Aが揃う確率は単純計算で649740分の1。天文学的数字、というほどではないけれど、その役が奇跡的かつ最強の役であるということに異論はでないはずだ。
 それ以外の順位があるのを知らないみたいに、定期試験、実力試験、全国模試――試験という試験で1位を獲り続ける頭脳。帰宅部ながら、各種インターハイ出場選手を向こうにまわして一歩もひけをとらない運動神経。そして、何より特筆すべきは、類まれなる優れた容姿だろう。
 艶やかな黒髪、きめ細やかな肌、信じられないほど整った目鼻立ち――女優がみんな彼女みたいな容姿の持ち主なら、照明係とスタイリストは残らず職業安定所行きだ。
 胸の隆起は非常に慎ましやかではあるけれど、でも四月朔日の場合、胸がないっていうより、スラリとしてる、って感じだなんだよな。ポジティブAカップ、って呼称もドシドシ広めていきたいところだけれど、ここはグッド&オールドかつラブリーにつるぺたと称しよう。
 わぁい、つるぺた! ボク、つるぺた大好き!
 人生山あり谷ありだから、女の胸くらいは平坦でいいんだってホント。
 絶壁に焦がれ、登攀を挑んだ愛のクライマーは、俺が聞き知る限りでも二桁を数えるけれど、誰ひとりとして登攀に成功したものはない。
 なんでも、四月朔日ちゃんってば、告白されると、返事すらしないで、鼻で笑うらしいよ?
 うわ怖っ。何それ怖っ。想像しただけで吐きそう。伏し目がちの「ごめんなさい」も言ってもらえねーのかよ。残念賞も出ないとか、コンプガチャ以下じゃねーか。公正取引委員会に怒られんぞ、その商売。
 異性から告白された時に限らず、部活動に勧誘された時、他愛ない世間話を振られた時、勉強を教えて欲しいと乞われた時、一事が万事セメントみてーな態度だから、恋人は当然として、友達もひとりもいない。
 それじゃ俺と同じく常敗無勝の名門チーム・神之木ぼっちーズの一員じゃん、とか思いそうになるけど、四月朔日の場合、俺と違って、ぼっちとかコミュ障って感じじゃないんだよな。物理的にも精神的にも、背筋がピンと伸びてるんだ。孤高ってそういう雰囲気のことを言うんだろうね、きっと。
 学業も運動も超がつくほど優秀。美人でスタイルもいい。男にも媚びず、女とも馴れ合わず、雪にも夏の暑さにも負けぬ美貌を持ち、オパーイはなく、決して揺れず(乳が)、いつもぺたーんと佇んでいる。
 そんな四月朔日春夏秋冬を指して、ロイヤル・ストレート・フラッシュと形容しても過剰ということはあるまい。特に胸部の形状がトランプにそっくり。だとするなら、俺はせいぜいノーペアってところだろう。勝負にならないどころの話じゃない。というかそもそも、俺と四月朔日が同じゲームをプレイしているかどうかさえ怪しいもんだね。
 いやー、一年、二年とあいつとは別なクラスに配属されてよかったわ。まじでまじで。そうじゃなかったら今頃、己の矮小さを自覚するあまりに、俺の身長、縮みに縮んで百センチ切ってる。科学的に分析されて自重で潰れてくゴジラかっつうの。
 三年のクラス分けが発表されて、四月朔日が同じクラスになったのを知った時も、自分と彼女とは、このまま言葉ひとつ交わすことすらなく卒業するんだろう、ってそう思ってた。
 そう思ってたんだけどねー。



4.
 四月朔日は、自分の体を抱きしめるように腕を組んで、俺を見下ろしてた。
 彼女をそれだけの至近距離で見るのは初めてだったけど、とんでもない美人がいたもんだな、って改めて思ったよ。神様頑張りすぎ。その分の手間、世界平和の構築とかに回せよ。アフリカでは数え切れないほどの子供が飢餓に苦しんでいます……。あと俺が童貞です。
 サラッサラの黒髪ロングヤバい。スベッスベのお肌ヤバい。つうかこいつ何でこんなにいい匂いすんの? 女の子フローラルの正体は香水だよとかヘアコロンだよとか言われてるけどアレ嘘だわ。絶対未知の化学物質出てるわ。じゃなきゃあんなにドキドキするわけないもん。
 四月朔日が吐瀉物でも見るような目つきで俺のこと見てなかったら一発で恋に突き落とされるところだった。危ねえ危ねえ。
「おはよう、兼坂くん」
 呆けている俺にむかって四月朔日が言った。その親しげな感じときたら、飛び出しナイフといい勝負だった。もしあれが挨拶なら、腰の入ったブローをボディにぶちこむくらいまでは挨拶の範疇になるだろう。
 おはよう、って俺は返した。約一年ぶりに母親と看護師さん以外の女と話したにしては、吃ったりキョドったり甲高い声でマンマに助けを求めたりせずに、落ち着いてうまくやれたはずだ。わぁい。褒めて褒めてー。
 そんな愛くるしい欲求も虚しく、四月朔日は俺を冷たく見下ろしたままだった。んもー。何よその態度。素直になれないコには甘くて切ないご褒美をあげないぞ。僕の唇なしで今日を凌いでいけるの?
「初めまして。私は四月朔日春夏秋冬。――あなたのクラスメイトよ」
 これには驚いた。
 何に驚いたかって、彼女ほどの有名人ですら自己紹介の必要を感じるんだってことに驚いた。
 地面を指さして、この惑星の名前は地球です、って言われたようなもんだ。エンジントラブルで不時着した異星人じゃないのよ、俺。
「あなたとお話したいことがあるの。時間を都合してもらっても構わないかしら」
 はあ、と俺は頷いた。
 え? 話? 何? お高い壺でも売りつけられるの? でもこの態度、物売るってレベルじゃねーぞ。新手の詐欺――ツンデレ商法か何かか? べ、別に英語教材なんて買って欲しいわけじゃないんだからね! 孫会員を連れてくれば、そのヒトの購入金額の一割があなたに還元されるなんてこと、あ、あるわけないじゃないっ!
 俺の混乱度メーターは、早くもレッドゾーンまで振り切れてた。目とかぐるぐるしてたかもしんない。瞳孔とかチャクラとか開いてたかもしんない。
「それで、なのだけれど――」
 と、四月朔日は言いながら、視線を横にずらして教室内を一瞥した。
 俺もそちらに視線をやる。
 ある者は宿題をするシャーペンを止め、ある者は友人とお喋りしていた口を半開きにして、俺と四月朔日を見ていた。四月朔日が俺に話しかけるってのは、彼らの時間を停めてしまうくらいの大事件だったってわけだ。もし唐突にキスとかしてたら、教室はデス・ノートが猛威をふるった後みたいになってただろう。どんだけだよ、俺と四月朔日との差。社会的落差。
「ここでは多少ならず話しづらい事柄なの。場所を変えましょう。そうね――ベランダが良いわ。ベランダで、お話しましょう」
 俺の返事も聞かず、四月朔日は、教室の後方にあるドアからベランダへと出ていってしまった。
 椅子に座ったまま阿呆面を晒しているわけにもいかず、仕方なく、俺はその後を追った。浴びせられるクラスメイトの視線の鋭かったこと痛かったこと。iPhoneを左胸のポケットにしまってなかったら確実に死んでたね。
 さりげに生存フラグを立てることもできる。そう、iPhoneならね。ドヤッ。
 スティーブ・ジョブス、R.I.P。あれ、ジョブ「ズ」だっけ?



5.
 ベランダに出ると、三階だというのに春が匂った。
 湿った土、萌える植物、柔らかな陽光が複雑に絡まりあった匂いだ。冴え冴えとした空の群青に映える桜の白桃色が目に暖かかった。人をみんな写真家にしてしまえそうな素晴らしい天気ではあったが、俺が四月朔日とサシで話をする背景としてはできすぎていた。
「えーと、話って何すか?」
 首筋を掻きながら、俺は尋ねた。
 珍奇な部活動に勧誘されたり、「つきあって」って言われて驚いてたら買い物のことだったり、幼稚園の頃にしていた結婚の約束を果たしにきたり、夜店ですくった金魚の生まれ変わりだったりする青春ラブコメこそが望むところだったが、四月朔日が返してきたのは、ギロリと音がしそうな睨めつけの視線だった。
「ぼさぼさの髪、猫背気味の姿勢、知性の感じられない言葉遣い――」
 四月朔日は吐き捨てた。
 おいおい、ひでー風体の野郎がいるもんだな、って思わないとやっていられないくらいにそれは俺のことだった。認めたくないものだな、自分の特徴というものを。でも学ランの下のTシャツは貶されなかったのでよしとする。この世知辛い現実で、希望ひとつ、み〜つけた!
「きっと、あなたのような人間が、女子校に忍び込んでスクール水着を窃盗、果てはそれを着用しながらの公然排泄などという度し難い変態行為に及ぶのでしょうね……」
 もしもし、病院ですか。俺の青春ラブコメが全っ然息してないんですけど。
 四月朔日は、ふたたび自分の体を抱くように腕を組んだ。「早く話を済ませてしまいましょう。あなたに見られている――それだけで妊娠の危険を感じるわ」
「ねーよ。どんな生殖システムだよ。せめて身の危険くらいにしろよ」
「己が危険であることは認めるのね」
 俺の常識的な突っ込みに、四月朔日は腕に力をこめて半歩後ずさった。
「万が一、私のような見目麗しい女子に対して一切の劣情を催さないのだとしたら、それはそれで、あなたが禽獣にも劣る変態性欲の持ち主であることの証左に他ならないわ。どちらにしろ、危険を感じるわね……」
 さらに半歩下がる。
 お前の舌鋒のほうがよっぽど危険だっつうの、って思ったけど、それを口に出すと、要らぬ罵りを浴びそうだったのでやめておいた。俺は変態じゃないから、被虐趣味者の素質はない。読む同人誌は全部イチャラブ和姦ものだしな。ななせめるち先生、「パパ×まどほむ」の続編よろしくオナシャス!
 って、四月朔日と俺との初会話はまあ大体そんな風だった。聞きしに勝る棘のある態度。美貌、完璧、孤高――俺は四月朔日に対して抱いていたイメージに、傲岸と不遜の二単語を付け加え、それをもってマスターアップとした。不具合があれば修正パッチで対応します。
「もう一度、自己紹介をさせてもらうわ。私の名前は四月朔日春夏秋冬。あなたと同じ三年五組の所属で――学級委員長を務めさせられているわ」
 学級委員長。へー。言われて見てみれば、四月朔日の左腕には、級長であることを示す刺繍入りの腕章が巻かれていました。ごめんなー、正直、顔と虚乳にしか注意いってなかったわ、ごめんなー。
「本当は、こんなもの、つけたくはなかったのだけれど――」
 四月朔日は毒でも吐くように忌々しげに言って、窓ガラスごしに教室内を見やった。怒気と殺気を多分に孕んだその視線に、こぞってこちらをうかがっていたクラスメイトたちが慌てて顔をそらす。
 見知らぬ顔の多い新クラスにあって、知名度がゆえに級長の役職を無理やりに押しつけられた、というところだったんだろう。無名人も大変だけど、有名人も大変だ。
「最低だわ。今年度は受験もあるし、他にしなければいけないこともあるというのに……」
「しなければならないこと?」
「あなたには関係のないことよ。下衆の勘ぐりはやめて頂戴。心底から不快だわ」
 チッ、って。四月朔日のやつ、舌打ちで俺の質問はねつけやがった。
 思わせぶりな台詞言っておいて、こっちが一歩踏み込んだら下衆呼ばわり。そうかよそうかよ。でも、俺が今晩ベッドでどんなこと考えるか知った後でも強気な顔で気丈な言葉を吐いていられるのかニャ? ニャニャニャ? 強気っ娘強制猫耳メイド化大正義! その尻尾が一体どこから生えてるのか、とくと確かめさせてもらおうじゃねえか……。上目遣いで哀願しても許してやんニャいよ?
「で、話って何?」空想上の四月朔日春夏秋冬の空想上の飼い主であるところの実在の人物である俺は訊いた。「何かして欲しいことでもあんの?」
「して欲しいこと――いいえ。あなたのごときに何かして欲しいことがあって、ここに来てもらったわけではないわ。そうではなく、あなたが浅ましくも考えていることの逆よ」
「逆?」ぼっち系男子を強制猫耳メイド化して飼いたいってこと? おいおい思想警察がいたら捕まんぞ、その先進性……。日本は美しく保守的な国です。
「そう。あなたには何かをして欲しいのではなくて、何もしないでいて欲しいの」
 意味がわからない、って思って、数秒間頭をぐるんぐるん回してみたけれど、やっぱり意味がわからなかったので、俺は正直に「ごめん意味がわからない」って言った。俺の宝貝無知の知」はしかし、四月朔日に、蔑みの表情を浮かべさせただけだった。あ、宝具って表現のほうがナウいですかね?
 仕方がないわね、と溜息をついて、四月朔日は解説をはじめた。
「新学期が始まって十日。あなたにも感じられたと思うけれど、三年五組の人間関係はもう固まっているわ。それも、とても優良な形でね。これなら、諍いごとやいじめも起こらず、そのために私が手を煩わされることもない――」
 ただし、と四月朔日は言った。
「それはあなたと私とがクラスの輪の中に入ろうとしなければ、の話よ。彼らの関係は、長らく休んでいたあなたと、頭の出来が違いすぎる私とを抜きにして、すでに完結を見ているの。それなのに、寂しさに耐えかねたあなたが友人を作ったとすればどうかしら。その完全性は損なわれてしまうかもしれない。私はそれを望まないし、彼らもそれは同じ」
「要は――友達を作ろうとするな、ってそういうことか」
「これまでの数年間と同じように過ごせばいいのだから、簡単でしょう。――端的に言わせてもらえばね、兼坂くん、あなたの社交スキルの低さはクラスの足を引っ張るの。墨汁を一滴垂らしただけでも、その水は飲めなくなってしまうのよ」
 まったく、と芝居がかった溜息をつき、四月朔日は肩にかかった髪を掌で払った。腰に手をあて、目のギロリで俺を真正面から突き刺す。
「大人しく不可触賤民していなさい。あなたには列外が似合いよ」
 どうも、俺の身辺については調査済みらしかった。
 小六の時、女子の縦笛を盗んだ疑いをかけられて、クラス会議という名の弁護士のいない裁判にかけられ、あっけなく死刑判決をくらった事実も知っているのかどうか尋ねたかったが、その勇気はなかった。そんな蛮勇があったのなら、縦笛を盗んでぺろぺろしたりせず、玉砕覚悟で告白をしにいっただろう。ついでに吊し上げを喰らっている最中に、彼女の上履きの靴紐を自分のそれと交換したことも正々堂々カムアウトできていたはずだ。
 もう二度とあんなことしないよ(ボイスオーバー風に)。
「わかった」と俺は頷いた。
「その“わかった”は、私の言うことを了解した、という言明かしら。それとも、私の言うことに従う、という意思表示かしら」
「今年は誰かのアドレスを携帯に登録するって野望を諦めるってことだよ。ついでに、恋人と食べるクリスマスケーキも忘れずにキャンセルしておく」
 瞠目せよこのユーモア。刮目せよこの決断力。どうですか、「授業」と、「タイプの違う女の子二人から同時に告白された時のシミュレーション」とが同義語になってるだけのことはあるだろ? どのみち、友人なんて作れやしねーんだ。すべての平行世界がが俺=ぼっちという状況に収斂するんだ。どうせなら俺は、四月朔日に命じられたから一人でいるんです、ってほうを選ぶぜ!
「いい返事が聞けて嬉しいわ」
 四月朔日はそこで初めて笑みを浮かべた。
「私の望む通りの――完璧な返事。それを口にできたというだけで、あなたの評価を多少情報修正することもやぶさかではないわ。知っていて? この世では、完璧なものだけが愛される価値を有するのよ」
 それは確かに完璧な――男なら誰だって恋に落ちてしまうこと間違いなしの、完璧な笑顔だった。その時、俺は改めて、自分がロイヤル・ストレート・フラッシュと話してたんだ、って実感した。
 途端に訪れる気まずさ。据わりの悪さ。生まれてきてごめんなさい感。
 みなさん、心してご覧ください。これが、近年まで幻想上の生物だと考えられていた真性非モテの姿です。
 見ろ……これが夜に萌えアニメを観るという禁忌を犯した罪人の姿だ……! ティヒヒ、鉄知ってるよ、リア充はこういう胸キュンを感じた時、三秒フラットでキス→セックスに持ち込めるって。いいなー羨ましいなー。女の子のお部屋とかお邪魔してみたーい。
 えーと、って俺は後頭部を掻きながら言った。
「話が終わったんなら、教室に入っても構わないかな。もうじきに弟が忘れ物を届けてくれることになってるんだ」
「忘れ物?」
「ああ。弁当を家に忘れてさ。学食を利用しようにも、財布には二十三円しか入ってないから。もしも受け取りそこねたら、飢え死にしちゃうよ」
「呆れるわね」四月朔日は眉を立てた、「そんな少額の金銭ならば、むしろ持ち歩かないほうがマシのように思うわ。運搬に要するカロリーで赤字が出そう。それともあれかしら、人の輪だけでは物足りなくて、資本主義からも逸脱することを目指しているのかしら?」
「罵りの言葉よりも、頼みを聞き入れたことに対する対価を賜りたいところだね」
「対価――?」
「ああ。何かを得るためには同等の対価が必要。等価交換の法則、化学の授業で習ったろ」
「対価――御礼――謝礼――」
 四月朔日は呻くように呟きながら、俯き、顎に手をあてた。
「ごめんなさい。私としたことが、それについては失念していたわ。完璧に、失念していたわ」
 どんなものが望ましいかしら、と、傍目にも真剣に悩み始めた四月朔日に、いやいや冗談だよ、って言ってズラかろうとしたその時、窓ガラスが軽くノックされる音が聞こえた。
 顔をむけると、ガラスの向こう、教室内に鋼がいた。
 鋼は、ニッと笑い、弁当箱入れを掲げた。
 上級生の教室だというのに、ちっとも萎縮してる様子がなかった。さすが、肝が据わってる。俺なんて、自分の教室においてさえ、ステルスモードでようやくサバイブしてるっつうの。その割に、苦手な数学の時間は、よく教師にタゲられて大恥かいてんだけどな。死ぬ。もう死ぬる。
「はいこれ。お届けー」
 ガラガラ〜って口で効果音をつけながら窓ガラスを開けた鋼は、俺にコーラの缶を抛った。次いで、ぐっと腕を伸ばして弁当を押し付けてよこす。
「朝から悪かったな」
「大丈夫大丈夫。気にしないでいいよ。僕たち兄弟じゃん」
 そう言って、鋼は笑顔を見せた。うおっ、眩しっ。
 俺の弟がこんなに爽やかなスマイルなわけがないって思ったけど、俺の弟は鋼をおいて他にはいないわけだから、俺の弟の兄貴が女子連中から「キモい」「挙動不審」「目が死んでる」「視姦されている気がする」「何を考えてるのかわからない」「Tシャツが人間入れて歩いてる」って陰口を叩かれまくってるわけがないって言ったほうが正確だっていう壮絶な結論に達して、頭痛と吐き気を催した。
 あのさ鋼、と俺は言った。
「来たついでに金貸してくんない? 帰りにコンビニでブラックサンダー買って喰って帰りたいんだわ」黒い稲妻。選ばれし知的強者のチョコレート菓子。これ以上格好いい名前の食いもんがあったらおせーて欲しい。登校した自分へのご褒美。スイーツ(笑)
「え? 鉄兄ィ、三十円ないの?」
“今まで太陽見たことないの?”みたいな口調で言われた。
「うん。二十三円しかない」
「二十三円って実質ゼロ円じゃん」
 携帯の月々の支払いみてーに言うな。あと、タダより高いものはない、という金言に従えば、俺はお前よりも金持ちなのではないかどうか、という逆説が心に浮かんだが、それを口に出さないくらいには、俺の中に理性が残っていた。あとタダの二十三円じゃねえし。十円玉は二枚ともギザ十だし。崇めろし。奉れし。
 はいこれー、って鋼は財布から出した五千円を気前よく俺に渡してくれた。
 ありがとう、そしてありがとう。
 やってくる客と他の従業員が女の子オンリーの空気系スイーツパーラーでバイトすることになったら、その給料で今まで借りた十五万とあわせて返すね、絶対だからね、って俺は心の声で鋼に約束しておいた。口にはしない。言葉にすると気持ちは嘘になっちゃう、ってよく言うだろ。この世にひとりきりの兄弟に嘘をつくなんて……俺、そんなことできないよ……。
「それじゃ、お届け完了ってことでー」鋼は四月朔日にチラッと視線をやった。「何かお話の最中みたいだし、これ以上邪魔してもアレだから、僕、自分の教室に戻るよ」
「おう。またな」
 ガラガラ〜って効果音をつけて窓を閉めた鋼は、出入口ンところで室内の人間に軽く会釈をしてから、教室を出ていった。すぐに、熱っぽい目をした女子たちがスクラムを組んで何事かを話しはじめたよ。桃色オーラを発していたところからすると、あれはアルバニアの経済政策についての議論をしていたわけじゃないだろう。鋼くん、もってもてー! ひゅーひゅー!
 俺は蓋を引き開けたコーラをがぶがぶ飲みながら鋼の背中を見送った。小春日和にあって飲む冷えた炭酸飲料、また美味からずや。僕、甘いもの、ダーイスキ。どんとこい糖尿病! インスリン注射ってシャブ射ってるみたいで格好いい! 自称・神之木東のシド・ヴィシャスとしてはブスブス皮下注射したいと思わずにいられないな。
 嘘よ、って震えまくりの呟きが聞こえなかったら、そのまま糖尿坂を駆け上がってたと思う。あの果てしなく遠い糖尿坂をよ……。
 缶から口を離した俺は、呟きの主であるところの四月朔日に目をやった。
 あいつの表情を、一体どう表現したもんかね。両手をぐーの形にした彼女は、唖然、呆然、愕然、驚愕、絶句――そんな顔をしていた。そういう顔をしている彼女は、ロイヤル・ストレート・フラッシュではなく、ただの四月朔日春夏秋冬だった――みたいなことを書けば純文学の香りが漂うんだろ? ならそれでいいや。それで頼む。
「嘘、って何がッスか?」
 知能指数100(2進法カウント)って口調の俺の質問に、遠く火星あたりまで飛んでいた四月朔日の精神が体に戻ってきた。白い頬にさっと赤みがさしたと思った次の瞬間、俺の視界に閃光が弾けた。衝撃。弁当が手から落ち、コーラの缶が転がり、残った中身がぶちまけられた。
「な、なんでもないっ――」
 真っ赤な顔でそう叫んだ四月朔日は、さっさと教室へ入っていってしまった。
 ドアがバタンって閉まってからようやく、俺は自分がビンタされたんだって気づいた。
 両親も含め、誰かから暴力を振るわれたのは、それが初めての経験だった――というフリは「親父にもぶたれたことないのにっ」という使い古されすぎてもはや死に体のパロディを導出するための大嘘で、俺の親父は躾として容赦なくぶん殴るタイプのヒトなんだよねー。
 県警の機動隊の隊長さんで、体クソ鍛えまくってるから、二の腕とか信じらんねーくらい太い。殴られるたびに首もげてないか心配になるもん。思わず辺りを探し回しちゃうもん。幸いなことに吹っ飛んでたことは一度もないけど、いい加減次あたりマズいと思う。もげる。数回転したうえでちぎれ落ちる。
 やれやれ、Tシャツ買うための金、親の財布からこそこそ盗むのも命がけだぜェ……。
 四月朔日のパーパンチは、親父のグーパンチに比べればこんにゃくを頬にぺたんとあてがわれたような軽いもんだったけど、比べなかった場合には、一般的に「強烈なビンタ」と呼ばれて然るべき代物であったので痛かった。ちょー痛かった。さすが運動神経抜群だけのことはありありアリーデヴェルチ。つーか、なんでもないなら他人に危害加えんなよって話だし、他人平手打ちするのはどう考えてもなんでもなくねーだろ! 警官の息子にビンタ喰らわすとかテメエ正気かよ! 国家権力と虎の威を借る狐舐めんな! パパに言いつけんぞ!
 右頬はずきずき疼いたし、覆水盆に返らずってことでコーラはもう飲めなかったし、クラスメイトの視線は痛かったし、昼休みに蓋を開けてみたら案の定弁当は片側に偏ってしまっていたし、そのわずか一週間後には、四月朔日から十指に余る数の平手を頂戴する波乱の命運を抱えていたわけで、俺という少年はどう考えても不幸だったニャン。



6.
 それからこれまでの一週間は大変だった。
 四月朔日の席、右斜め後ろなんだけど、ずーっと俺のこと見てるんだもん(除く土日)。
 何ていうのかな、見えない犬がケツに噛み付いてる感じがあったんだよ。最初は俺の気のせいかなって思ったけど、視線を感じて振り返る→四月朔日が慌てて目をそらす、っていうコンボを初日に飽きるくらい続けて、あーコレいつもの自意識過剰じゃないんだってわかった。
「お前俺のこと好きになっちゃったんダロッ☆」って四月朔日のスベスベほっぺorぺたんこお胸を人差し指でつんつんしにいかなかったのは、戯れにでもンなことしたら関節をありえない角度にひん曲げられてマジモンの謝罪汁を絞り出されそうだったからだし、勉強についていくのに必死だったからだ。
 社会に出たくない僕は大学進学一択! 働いたら負けだって思ってるうちは三流。働いたら死ぬって思ってせいぜい二流。働かないって決めてようやく一流。ゆくゆくは靴の履き方を忘れるくらいのニートになりたいと思ってる。
 つーか、四月朔日ちゃんよ、お前実は俺を見てるわけじゃないだろ。俺というレンズを通して鋼きゅんを見てるんだろ。よおく知ってるぜ、そういうの。パターン:ピンク、思慕です!
 バレンタインデーの日、俺が何回「こ、これ、鋼くんに渡してくださいっ」ってお洒落な包装カマされた小箱渡されてると思ってんだよ。あの娘っ子どもと同じ目つきなんだよ今のテメエは。どうせ、あいつらと同じで俺の名前も言えないんだろ? 勘弁してくださいよもー。
 なお小箱の中身は、ゴール地点に到着するより前に俺に貪り食われた模様。好きになった相手がチョコレート苦手だってことくらいは調べようよ。もし鋼をオトしたかったら――そうだな、あいつ動物好きだから、チェシャ猫でも捕まえて贈ってやれば?
 って、アドバイスしてやろうにも、俺を注視する四月朔日は日に日に鬼気迫ってきてる様子で怖くて話しかけるのなんて到底無理な相談だった。もはや、チェシャ猫だろうが百万回生きた猫だろうが長靴を履いた猫だろうがキティちゃんだろうがミッフィーだろうが、鉄串ブッ刺して最大火力のガスバーナーで数瞬炙ったあげく、頭部からわしわし食っちまいそうな感じだ。
 勇気を振り絞って気づいてない振りをしてあげるのがせいぜい。緊張感ヤバすぎで放課後を迎える頃には、俺の尾てい骨のあたりは汗でビショビショです。はわわ、これじゃ腸液お漏らししちゃったみたいだよお〜(>_<)ふええ〜、おとなよーのおむちゅちゅどこー?
 おかげで勉強全然手につかねえし。何しに学校来てんだよ俺。
 繊細な神経ブレイカーこと四月朔日は、とうとう昨日、目の下にクマを作って登校してきた。朝っぱらからユンケル黄帝液ダブルで飲んで、溜息をつきながら目頭を揉む女子高校生なんて、僕、見たくありません。あのな、女子高生ってのはね、なんというか救われてなきゃあダメなんだって。
 それでも、稀有な美貌に一切の曇りはないと感じられるのだから素晴らしいね。
 むしろ、翳りを孕んだ表情は、年不相応な凄艶さえ醸し出していた。たまりかねた男子生徒が、下心丸出しで「体調大丈夫?」って話しかけていたけれど、完全無視されて心に深い傷を追うバッドエンドに至り、全世界を震撼させた。
 そして迎えた本日は曇天なり。
 確かにセットしていたはずの目覚ましアラームが鳴らなかったり、手を滑らせて飯茶碗を落として割ってしまったり、めざましテレビの星占いで射手座が最下位だったりと、朝から凶兆には事欠かなかったけれど、Q.自分だけは絶対に破局的運命から逃れられると信じています。この考えは間違っていますか?(十七歳・男・高校生) A.自信は頼もしいですが、いかんせん根拠が薄弱です。睡眠薬を大量に服用させられ、呂律が回らなくなったりとかしてみましょう。頭のほうも全然回らなくなるかもしれませんが、ウスラトンカチはいつものことなので安心してね。
 やー、絶賛思いつめた顔の四月朔日が教室に入ってきてすぐに、これマズいかも、とは思ったんだよな。今日こそは何かされるかも、って。ひとつひとつの仕草に転覆寸前のボートか導火線に火のついたダイナマイトみてーな危うさがあった。
 髑髏マークのシールが貼られた謎の小瓶を鞄から取り落としたのを目撃した時点で、保健室に駆け込んで、酷い生理痛になった旨を訴えて早退していれば、あんな――こんな惨劇を招くことはなかっただろう。すると悪いのは自己防衛をしてなかった俺か? って考えに辿り着きそうになるけど、レイプ被害者とレイプ犯とでどっちが悪いかで悩むくらいなら警官の息子なんてやってねえっつうの。悪いのは間違いなく四月朔日悪人正機を唱える浄土真宗でもあれほどの悪を救済することはできまい。
 身の危険を感じながらも、ああして――こうしてあえて死地に踏みとどまったのは、午後に数学の授業があったからだ。えーと、数学って知ってるかな? すげー難しい学問なんだけど。
 あれは中二の時だったかな、小テストの計算方法が全然わからなくて、すべての解答欄に「42」って書いて提出したら放課後に呼び出しを喰らった。人生、宇宙そして万物についての究極の疑問の答えであるはずの数字が通用しないとか難しすぎだろ、って思って思い続けて早五年目。
 心せよ、汝が数学を覗きこむとき、数学もまた汝を覗きこんでいるのだ……。
 友人のいないキング・オブ・ぼっちの身分では、誰かにノートを見せてもらうこともできず、一度でも休んだら、そのまま振り落とされて置いて行かれる。社会進出がデエッキレエな学生中毒患者として留年は望むところだが、弟と同学年になるというのは、ちょっとさすがに勘弁していただきたい。恥ずい。
 そんなわけで、俺は、今日も今日とて背中に刺さる四月朔日の視線にガタガタ震えながら、大丈夫だ、大丈夫だ、って自分に言い聞せて耐えるより他に方法はなかった。むろん、本当に大丈夫だったのなら、こうして回想なんてしてない。
 俺が睡魔に蕩けゆくNow-Hereに至る過程を、それではご覧いただこう……。
(続)

『清十郎たち』日向敏

 仇討ちが終わったあと、佐々木清十郎にしたいことはなかった。もちろん、当日は盛大に祝賀されたし、自分でもひとかどの人間になれた気がしたものだ。墓に参り、父よ敵は果しましたどうぞ御霊安らかにお眠り下さいと涙を流したのも嘘ではない。墓は、家臣である中川十内の指示によりいつもとどこおりなく磨き立て上げられていたが、それでも裏面に彫られた文句には、やや土の痕があった。先日降った砂塵まじりの雨の名残であろうか。ふと顔をあげると、捧げてあったのは濃い紫の菊で、清十郎は、理由しらず懐かしい気持ちにおそわれた。それから、紫は母が好んでいた色だと思い当たり、今も屋敷には帰らず逃亡している母をこっそりと美化して自分を慰めもした。殿と静かに語りあっておられるのだろう、邪魔をしてはならぬ。敵を討った腕は十内仕込み、はばかって表立っては言えぬが顔立ちはあの方と見まごうほど。でも、まっすぐで優しい心根は殿そっくりであられるから。気をきかせて従者たちが場を離れていたのを幸いに、清十郎は声を殺して泣いた。線香からはすこしだけ白檀のかおりもした。
 ただ、両親の思い出をあれこれ夢に見て感慨にふけったのはその日ばかりであった。もともと清十郎は禄高こそ低いが城持ちの殿様である。仇討ちの完遂には、彼のみならず彼を擁する藩の存続がかかっていたのだ。仇討ち後、四十九日を待たずして清十郎は初めて江戸にあがった。他の城持ちたちとともに大座敷で頭を垂れているさなか、見送ってくれた十内の満足気な面持ちが思い浮かんだ。これから清十郎は藩をしきらねばならない。十内は陽射しをふさぎながら立っている老いた大樹のようなもので、仇討ちが終わったあとは若木たちのために倒れるばかりである。城内では、十内の位置を狙ってすでに自分にすり寄ってくる者も多い。若殿が仇討ちに専心しているのをいいことに、ここ十年あまり、家臣団の中では汚職が横行していることも悩みの種であった。清十郎は江戸から帰ると、手始めに城内の膿を一新せんと改革に手をつけた。その八年後、その日だけ不用心にも開け放たれたままになっていた庫裏から侵入した浪人どもとその子らに、彼は寝所でなぶり殺しにされた。

 四十九日の法要のあと、清十郎にしたいことはなかった。もちろん法要の最中は、説教をききながら、なるほど我がつとめは父が興した店を守りさらに販路を拡げていくことだと深く感じ入りもしたのである。しかし、決意というものにかけては流れの早い浅川のように留め置くことが出来ない性であるから、坊主どもが奥にひけ、境内に取り残されると、とたん、清十郎はぼんやりしはじめた。いつもはうるさい親戚連中は、相談事と噂ごとにふけるために三々五々散ってしまい、あたりは静かで、音といえば目前から不快な羽音がするぐらいだ。その羽音が遠ざかり、地蔵につけられた前垂れにぷんと虫がとまるのを彼はじっと見た。虫の羽から透けて見えるのは青黒くぴかぴかした胴体だった。清十郎は、夏に女郎たちが素肌に濃紫の紗を羽織って夕涼みしているさまを思い浮かべた。しずかな白いやわ肌が見え隠れするのと、立ち上がりしな、日に焼けた肌がするっと剥け見えるのとどちらが好みか、そのうち悪友たちに訊かなければならないと考えた。
 そうしたぼんやりをひきずったまま一年ほどがすぎたころ、業を煮やして声をかけてきたのは番頭の十内であった。番頭と言っても帳面を預かる大番頭であり、清十郎の父亡き後はほとんど旦那のようにこの大店をしきってきた。清十郎の実家は江戸の始まりよりも前から続く回船問屋としてつとに有名である。その血をひく清十郎は商いの才はとんとなかったが、生まれつき愛嬌だけはあった。その可愛らしさたるや、熟達の産婆が思わず連れて帰りそうになったほどである。加えて、清十郎は父が五十の境が見えてからようやく授かった子どもであった。彼がまだ腹にいるうちから、子どもの生育に悪いからと、上は旦那から下は小僧および出入りの者たちまで、皆とがった声は出すなと貼り紙が店内に貼られるほどで、ようするにべらぼうに甘やかされて頭の軽いぼんぼんになることがほぼ決まっているような子どもだったのである。しかし、彼は継嗣である。十内はそれをわきまえて厳しいしつけの任にあたってきたから、清十郎は十内に弱い。十三の年に吉原に遊びに出たことがバレてからはますます弱くなった。それで、十内が清十郎にある店で手代として働くことをもちかけたときには、半ば断ることを忘れていた。そこは、十内の知り合いの店であった。話によれば、清十郎の祖父が嫁をとるときに仲立ちをしてくれた者の縁者がやっているのだという。清十郎は頷いた。というより、首が上下したのを十内が肯定と見なしただけやもしれない。清十郎は三日ばかり働いてから、放蕩癖がすぎることに呆れられ、あの大店の子どもといえど許せぬと追い出された。


 楽すぎて暇なバイト先を馘首になったあと、清にすることはなかった。もちろん、当日はおおいに友人たちと飲み明かしたし、あんな店つぶれてしまえと大きな声でさけんですっきりしたものだ。思っていたよりも多かった通帳の残高に思わず笑みがこぼれたところだけは見せてはいけないとわかっていた。ただ、自由を満喫したのは一ヶ月だけだった。
 一ヶ月後、かつかつになってきた清に声をかけてきた者がいる。十内である。十内は勤労学生という言葉を再現することに熱心なあまり、授業に出たことは一切なく、ただ毎日バイトにはげんでいた。初めて出会ったのはサークルの新入生歓迎第二次コンパが催された会場のすぐ外で、彼は客引きをしていた。金髪と、よく見るとくたびれたスーツがよく似合っている。清のうしろで、まだ何とか理性を保っていた先輩が十内の素性を耳打ちした。こちらに金がないと知り、まったく声をかけてこないのが無性にくやしくて、清は自分からひっかかりにいった。すると十内は、人間行動情報論A期末試験の過去問とひきかえに、ソープをおごるともちかけた。清はとりあえずソープに行き、そのあとサークルの先輩からうまく目的のものを得た。十内はその試験に出てこなかったそうだが、なぜか単位の認定はうけていた。それからときどき二人はつるむようになった。先だって辞めさせられたバイトも十内を介して紹介されたものだ。その十内が自分のバイトを手伝わないかという。清はいちもにもなくとびついた。どんなバイトかと聞くと、にやりとして答えず、ただ、翌日どこそこの河原に来いという。興味をひかれ、清はうかうかと出かけた。すると、十内が竹を組んでいる。これで柵をつくるのだという。柵のなかで決闘が行われるという話だ。冗談だろ、と笑いながら清は柵づくりを手伝った。柵づくりは清の得意とするところだった。幼いころからボーイスカウトに通わされていたおかげで、竹を麻縄で括る作業はなれていた。ボーイスカウトの先輩にこづかれながら何十回となくやらされてきたのだ。柵を作り終え、土手をぶらついていると、自分と同年代くらいの生真面目そうな学生と、どことなく余裕があるチャラ男という二人組がやってきた。どうもそれが決闘をするやつららしい。清は学生から給金を渡されたのが釈然としなかったが、二人の瞳を見るに、これはよくよく因縁ある決闘にちがいないと悟った。ぜひとも見物しようと二人はその場に居残ったが、竹柵の内よりぴかりと鋭い眼光をあびせられ、ほうほうのていで十内と一緒に追い出された。


 決闘現場から追い払われたあと、セイジューローにすることはなかった。もちろん、当日はいつもよりちょっと豪勢なピザを頼んだし、そこらのたちんぼにコックをしゃぶってもらってすっきりしたものだ。帰りしな、もうすこしねばったら入れさせてもらえたかもと思わないでも無かったが、そこまで望むにはもうすこし星のめぐりがよくないといけないと思っていた。だいたい、生まれてこのかたいい星の導きがあったためしが無く、すこし上向き加減の時があってもどこかで逆風が吹き荒れるのが常である。それでもセイジューローは一時の快楽を卑下する気はなかった。ただ、うかれ調子のままでいれたのは、やはりそこまでだった。
 二週間後、セイジューローはダウンタウンでごろつきどもに絡まれそうになった。妙にお高くとまってる、というのが因縁をつけられる原因になった。この程度の火の粉の払うには身上を明かせばいいとは分かっていたが、いくら零落したとはいえ、自分が元々日本移民から裏社会のボスにまでのしあがった一族の出身だと喧嘩の最中にばらすわけにはいかない。それはほとんどすり切れてなくなったとはいえ沽券にかかわるのだ。セイジューローは生意気な表情のまま黙り込んだ。あやうく袋にされるところを助けたのはトナイだ。トナイはセイジューローの近くで決闘のもぎりをしていたやつである。セイジューローとは違い、決闘も見たらしい。そんな彼が自分と同じように疲れているようだったのが気にかかったが、その顔をみたとたん、疑問はふっとんでしまった。トナイの目はらんらんと輝いていた。「強盗に入らないか」。勢いにおされ、話はすぐまとまった。翌日深夜、忍び込んだ大型小売店には思いがけず人がいた。店員がひとり、女を連れ込んでコトに励んでいたのである。ふたりともぶち殺してやろうと近づいてから、セイジューローは、かつて自分の母を奪い、父を殺した叔父が目の前にいることに気づいた。叔父はセイジューローを見返した。叔父の胸毛は栗色だった。思わず、かあさんは、と問うていた。「知るかよ」「ぼうや、今あたしたち取り込み中なの、わかるでしょ」「どっちかといえば埋め込み中だな」「ふふ、……ぁあん!」「ああそうだ、いつのことか忘れちまったが、いつもサンダルウッドのにおいをぷんぷんさせてやがった女をついつい蹴り殺しちまったことがあったな」。その目があまりにも魅力的だったので、彼は母が落ちたのも道理だと思えた。叔父からは流行の香水と精液と汗の混じった匂いがした。勃ったポールがジッパーを突き上げていた。トナイは裏手から逃げだしたが、立ちすくんでいたセイジューローはかけつけた警官に逮捕された。


 牢にぶちこまれたあと、清十郎12021891はすることがなかった。己の成果が目に見え、多少なりやりがいをだれしも得られる工芸系工場系の仕事はもとより、まいにちひたすら木を切って薪をつくり真夏に燃やすだの、穴を掘っては埋めるだのといった徒労だけが残るような作業にも回されなかった。というのも、清十郎12021891になにかしら仕事を与えたら、彼はそれを精力的に行い、むしろこれまでよりも身体は健康になり、頭脳は明晰になるだろうと刑務官たちが判断したからだ。もちろん、その判断を下した刑務官たちはすっかり叔父に買収されていた。清十郎12021891が収監されたのは天下の網走刑務所であった。してはならぬことだけは山ほどあった。箇条書きにしてもブリタニカほどの分厚さになっただろう。さらに、清十郎12021891は名目上は事情聴取のための勾留であったため、たびたび尋問室に押し込まれた。目つきの悪い、どことなく叔父に似た面持ちの警部と妙に笑顔を絶やさないもう一人とに、小突かれ、なだめられなければならぬ。争点は主に清十郎12021891がいつどうやって清十郎12021891のパッチを手に入れたかであった。「以前の記憶がなくなったフリしたってそうは問屋がおろさないありえないことだってことぐらい分かってるぞ」「別にパッチが悪いとは言わないがそれは君自身をも侵すものなんだ」「ここにおいては沈黙は金じゃない銀ですらない多弁こそが金だ特に真実の多弁はな」「もう君も疲れただろう早く部屋に帰りたいんじゃないか」「気取っていれるのはここまでだ社会擾乱罪でひっぱられたいのか」「パッチをつけてなにになるというんだ本来の君自身が上書きされてしまうのは怖くないのかね」「どうせ刀を格好よく振り回したいとでも考えたんだろうが結局は心身を鍛えないとどうしようもないってのにも気づかない馬鹿が」「取引相手の名前なんて覚えていないだろうからそれはいいんだせめてどこでそいつと落ち合っていたのかだけでも思い出せないか」。しかし清十郎12021891は常に今後のことを考えていたので二人の言葉はほとんど耳に入らなかった。
 十日後、配給されたパンのなかに手紙が入っていた。清十郎12021891はパッチがあたっているため、他のパッチなし囚人とは別の棟に隔離されている。ゆえに、食事も別になっていたのだが、それにしてもどうやって仕込みをしたのか彼にはわからなかったし、興味も無かった。ただ、十内24021934に頼めば手に入らない情報はないというのは本当だなと思い、一瞬だけ尊敬の念を刻んだ。清十郎12021891は手紙を下の裏側に潜ませたままにし、巡回が切れるのを見計らってやけにぐにゃぐにゃとしたシリコン製のつまようじをつかった。監視カメラからは歯の掃除をしているようにしか見えないように細心の注意を払いながら手紙を取り出して見ると、アルファベットと数字の羅列が記されていた。はじめの二文字が州、次の一文字が郡、さらに次の文字が地区名を示し、数字は番地である。そこが、憎き敵である叔父と裏切り者の母が住む隠れ家だった。翌朝にすすったスープの底にはどろりとしたまずいものがあった。我慢してすべてのみこみ、夜まで待ってからはきだすとかの白鳥も使ったという獄抜け用ウィルスのデータが残った。電子錠に毎日すこしずつウィルスを流し込み、囚人コードを壊した。さらに自分で作ったその破れ目を隠蔽し、ぬけ出す時間をかせいだ。堀の外に出ると、見なれた人影が待っていた。かくして十内24021934の手引きで清十郎12021891は脱走した。


 脱走したのち、セイにはしたいことがなかった。しばらくは逃げ隠れする生活になるだろうということは予想していたが、その予感が的中したのは脱走当日だけだった。十内は、郊外にある偽の拠点へ直行した警察をせせら笑うかのように、中心街のホテルでセイを待っていた。実際のところ、セイは敵討ちを切望していたわけではない。しかし、すっかり組織をのっとった十内は、かつてセイの部下だった者たちがぐるりをかためるなかで悲痛に叫んだ。それによると、セイは監獄中でありとあらゆる屈辱に耐えた上、自身の敵の居場所を突き止めるため、己が身をひらいてまで情報を手に入れた。さらに自分を陵辱した別の棟の囚人に鉄槌を下し、かつての親代わりである十内が臆病にも脱獄協力をしぶっているのを脅迫し、仇討ちこそが我が人生の到達点だと告げそのためにはかつての家族の絆も全て断ち切る覚悟で今ここに立っているのだそうだ。あまりの熱弁に途中からセイは耳をふさいで後じさりしたくなったが、熱気にあてられたかのように頬を上気させ、セイをまぶしそうに見やる部下たちがそれを許さなかった。セイは十内の演技に乗るより他にその場をおさめる手段がないようだった。しかたなく、セイは、その場にいた全員の前で復讐の完遂を宣言した。ふたりきりになったあと、ぽつりと弱音をはくセイに、十内は自身の敵の所在をまでわかったのだから、これはどうしてもやらなくてはならない、そうするのが義務なのだとくりかえした。十内の言いかたは、幼いころ「ぼっちゃん、ハジキを使うのは最後になさい」と教えてくれたころのままだった。娑婆に戻ってこられたのもすべて十内の手駒となるためなのだとセイは思うことにした。
 一週間後、セイの叔父が隠れ家から出て舞台に出演するとの情報が入ってきた。叔父こそがセイの敵なのだ。叔父は支援者たちのディナーショーで歌を披露するらしい。十内の部下に血気だったやつがひとりいた。そいつはセイに支援者もろとも敵を殺すことを提案するが、セイにそのつもりはなかった。そもそも、本当に自分が叔父を殺したいなどと考えていないことははっきりしていた。そうとは答えず、代わりに、支援者はきっと叔父の正体を知らないだろう、そんなやつらを殺してもつまらないではないか、とセイは告げた。むしろ、支援者たちに叔父を裏切らせるほうが面白い。手のひらを返された叔父がどんな顔をするか、楽しみじゃないか。絶望してやけになったあいつをせせら笑いながら殺そう。「さすがセイさんだ」。セイは、叔父も自分も死ぬこと無くこの窮地をやりすごす方策は無いか考えるがいっこうに思いつかない。
 考えているうちにディナーショーがはじまってしまった。ホテルの大広間には舞台も備え付けてある。客はすでに酒が入っている。セイは舞台袖で叔父の手をとる。挨拶の練習をしていた叔父は突然のことに驚いた。セイの顔を認めて誰何の言葉をのみこむと、仇討ちに来たのだと早合点した。叔父は逃げる。セイは袖にとどまろうとしたが、脚がもつれ、逆に舞台に躍り出てしまう。セイは時代劇ふうの仮装である。かもじをつけ、袴をはき、刀をさしている。かみしもがゆれた。今回のディナーショーにはドレスコードがあった。受付を通った者はみな何かしらの衣装を身に着けていたのだ。叔父もやはり軽装ながら日本は江戸時代の武士階級を模した衣装だった。舞台の騒ぎを客たちは余興だろうと期待する。アクシデントへの対応をすっかり心得た係の者がジャパネスクな音楽をかけた。それぞれに照準が合わせられ、あとはスイッチを押すだけである。中途半端にたれていた幕がさっとひらいたとたん、ふたりはスポットライトを全身にあび、万雷の拍手をうけた。


 拍手をうけたあと、清にすることはなかった。今回のインタビューは、クランクイン直後の所信表明の場であり、絶大な人気を誇る監督のファンサービスも兼ねていた。当然、さまざまな会社の広告を背にあれこれ質問を受けているのは監督だった。彼は清の実の叔父であり、映画のなかでも清ふんする復讐を誓う若者の叔父役を演じる。けれんみたっぷりの色男、かつ作中最大の悪役であり、それまで叔父が主に演じてきた熱血正義漢とはかけ離れた役柄が注目されている。いちおう、清の側が勝利するというシナリオでこの物語は終わる。しかし、映画の見所は、あくまでも、主人である清のために奮闘する使い魔たちのやりとりや悪役とのとんち合戦、派手な戦闘シーンであり、主人はほとんど静かに頷き、画面端でちらりと呪文をとなえるだけの存在だ。「ベテランのかたがたにまじって僕だけ初心者ということもあってか、撮影であがりがちですね。ちょっと舌がまわってていません(周囲からの笑い声)……緊張しております(笑い)大先輩たちの演技を教本にして、クランクアップまで誠心誠意がんばりたいと思います(拍手)」彼はインタビューでそう述べたが、この部分が放送されることはなかった。翌日から悪役たちの撮影が順調に進む中、かれはひとり、最後にひとたち浴びせるシーンの練習をしていた。それまで使い魔にたよりきりだった戦法を最後に大転換し、自らの手で討ち取らんと敵に向かっていくという血湧き胸踊る場面である。撮影は終わる。地道な努力が実って、なかなか良い画が撮れたのでは、と清は心のうちで自賛する。ディレクターは全員に花を持ってきている。清も贈られた花束を受け取る。カメラマンは次から次へとフラッシュをたき、叔父のアップを撮った。叔父ばかり、と僻んでいるのがわかったのか、友人の十内が気を使ってカメラマンに耳打ちをする。清もパシャパシャと光につつまれる。しかし、そのファインダーは下げられていて、どう好意的に見ても靴と床しかフィルムには映っていない。
 三日後、映画のコンセプトを明確にするため、清の唯一の見せ場が削られることになった。「君はチャーリーズ・エンジェルズのチャーリーのようなキャラクターなんだ。姿を見せなければ見せないほど、その存在感は際立つというわけさ」。そう説明したのは十内の弟だった。彼は全国行脚の販売師を辞め俳優業に転職し、さらに十内のアシスタントをもつとめていた。役の話が来た時点では主役級とされていた自分の株はみごとに十内にとられていた。十内は単なる友人ではない。古くからの友人だった。おそらく今回の映画で、彼は俳優としての知名度を飛躍的にあげることだろう。今おもいだしたが、十内の弟は、役柄上は例の悪役と似たり寄ったりのひどい男である。きょうび、流行はろくでなしなんだと清は気づいた。清はろくでなしになることに決め、俳優業をほうりだし、ろくでなしのふりをして街をそぞろあるいた。ろくでなしとはどういうものかつかめていなかったから、ただあてもなく歩いただけである。しばらく歩いていると、もともと顔は悪くなかったし、芸能界に片足をつっこんでいることもあってすぐに女に告白された。二ヶ月ほどつきあってから、判をつき、婚姻届を提出した。そのときすでに、妻は叔父に寝取られていたのだった。


 寝取られてしまったあと、清十郎はするべきことがなかった。考えつかなかったというほうが正確だろうか。生まれてこのかた、彼の女運はいちども上昇気流にのることなく、いつだって低空飛行を続けていた。わずかな稼ぎすべてを貢いでは捨てられ、ヒモになっては捨てられる。酔った勢いで叔父の恋人を強姦したときには、格式にこだわる実家が手を回し彼女を清十郎の嫁にしたが、ふたたび叔父に奪い返されてしまった。しかし腹が立たないわけではない。清十郎はとにかく話をつけようと思った。叔父がいない間に家を訪ねた。妻は、ともに暮していたときと同じように紫の呂を身につけおり、その下には黒をあわせていた。すっとのびた白い足はほとんど節もなく整えられていたが、小指の爪がすこし曲がって生えているのだけは誤摩化しようがなかった。どうか戻ってきてくれ、家督を継ぐのは叔父ではなく自分だ。いくらでも贅沢をさせてやれるのだからと懇願するつもりだったが、気がつくと玄関にあった壺を振り上げおろして元の妻を殺していた。そこで初めて自分がほしかったのは、妻ではなかったのだと気づいた。
 そこへ、十内が歩いてくるのがわかった。十内の姿が、玄関の窓、生け垣のすき間から見えたのだ。あわてて清十郎は死体をかつぎあげ、部屋をいくつも突っ切り、勝手口をぬけると目の前にある井戸になげこんだ。それからそしらぬ顔をつくったつもりになって、表の戸口まで歩いて行った。ひょいっと出てきた清十郎に、十内は声をかけた。「ちょうどよかった、お前を探していたんだ」。ものすごい水音がした直後に自失のていで屋敷を出てきた清十郎のことを、十内は怪しむそぶりもみせない。「お伊勢さんに行こうぜ」。江戸から伊勢まで東海道中行く先々で有害難題奇妙面倒を巻き起こしつつも、伊勢神宮の内宮にようようたどりつき、参拝した。ずいぶんあちこちから人が来てるもんだ、請の代表らしい偉丈夫がなにひとつも忘れてはならぬと目を大きくひろげて隅々を眺めているのが見える。ふたりは茶屋でひと息いれることにした。腰掛けの上は畳ではなく日焼けした筵が重ねてある。団子を待ちながら右手をかけたら、脚の部分がささくれだっていたのか、細いとげがささった。十内に借りたとげぬきで、不器用に左手を動かしてとげを抜こうとするも、うまくいかない。見かねた十内がとげぬきを奪い、清十郎の右手をとった。集中している十内の頭に、ぽつりと白いものが見えた。清十郎自身は、あまり年をとった気がしなかったが、九年間も旅をすれば白髪の一本や二本生えてもこよう、と納得した。それから、急に、妻をなげこんだあの井戸はどうなっただろうと不安になった。水質が悪くなってしまったのではなかろうか。洗濯ができないほどではなかろうが、飲料にはむかないものになっているだろう。清十郎は立ち上がった。十内ははねとばされたので、顔を真っ赤にして腕をふりまわした。清十郎はとげのことなどどうでもよくなっていた。帰らねばならぬのだ。怒りをおさめた十内は清十郎の表情が暗いのを気にしているようだったが、それにかまわず帰路を急ぐことにした。
 さて、ちょうど天橋立まできたあたりで、見知らぬ若者に前をふさがれた。たしかに見たことはない相手なのだが、みょうに誰かをほうふつとさせる面持ちでもある。それが誰なのか考えていると、父母の敵、と叫ばれた。かん高く震える声だったので、ふだんなら聞き直したくなるところだったが、なぜかきちんと意味がとれた。こちらが意味を解したことが通じたらしく、若者はすらりと刀を抜き、気迫十分にかまえた。清十郎には、彼が、そう長くはないであろうその人生をすべてこの瞬間にかけてきたこと、日々たゆまず倦まず剣術に励んできたことがよくわかった。しかし、清十郎もなかなかの腕前、そう簡単には殺されない。また、九年間も風邪ひとつひかずに草枕の生活を続けてきただけあって、体力も清十郎のほうが圧倒的に優位だった。打ち合ってから半刻とたたないうち、若者はぜいぜいと肩で息をはじめた。即席の検使役についた十内の提案で休憩をはさむことにした。街道ぞいのため、行き交う人も多く、すでに見物客が波のように押し寄せており、清十郎と若者を中心に十重二十重の人垣ができていた。その中には、あの若者になにやら吹き込んでいるみすぼらしい浪人風情の者もいた。十内の合図で、清十郎もふたたびたちあがり、刀をにぎる。はっと打合ったが、そのとき急に景色がまわった。体が勝手に傾いでゆく。その隙をついて清十郎は討たれる。打ち合いの前に受けた、かわらけの酒、あの盃に一服もってあったな、と清十郎は遠ざかる意識のなかで思った。血を流して倒れた清十郎は、見知らぬ若者から唾をはきかけられた。


 唾をはきかけられたあとにすることはなかった。唾によって生まれたのはツバウミノミコト、ツバウミノミコトの腋から生まれたのはワキデノミコト、とぽんぽんと名前がつけられていくのを見た。誰がその名をつけているのか、皆目わからないのだった。やがて初めに生んだツバウミノミコトの影が薄くなり、ついでワキデノミコトの影がうすくなり、その子の、その子の孫も消えかかったころ、もちろん唾をはきかけられた当人も消えかかっていた。実のところ、ツバウミノミコトが出てきたあたりから早々に影がなくなっていたのだが、なお、意地をはって目をさましていたのである。その意地もつきかけたころ、突然「おお、我が偉大なる祖霊よ」と呼びかけられた。はじめは聴こえないふりをしていたが、あまりにしつこく呼びかけられるので返事をしてしまった。誰だか知らないがそう唱えるのは我が子孫なのだろう。何か用か。しかし呼びかけた相手はその声が聞こえないようで、しばらく祖霊よ、と続ける。なんだか腹が立って、そのまま聞いていると、「祖霊よ、どうか我に力を。我が怨敵を討ち果たすため、この刀に宿り、われわれに御加勢下されよ」とずうずうしいことを言いだした。あいにく、祖霊とやらにそんな力は無い。かれにあったのは、ともがらに唾をはきかけられることで生まれたツバウミノミコトを混沌の海に落とすことなく肱におさめたという事実だけである。しかし、どうも、かれはこの子孫からすれば、とてつもなく大きな力をふるい得る存在になるらしい。その愉快な勘違いに免じて、かたちばかりの加護の言葉がつむがれた。仇討ちに成功したのち、清十郎は社に詣でて祖霊をふたたび拝んだが、そのとき、かれは影も形もなくなっていた。


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『相馬から憎しみをこめて』正田展人

 うちはおかしいということにこの頃気づきはじめた。
 お母さんとお父さんの、僕に対する態度が、ほかの家と全然ちがうみたいだ。
 記念日とかテストで100点取ったとか、そういうことがあるとステーキが出てくる。そんなにいい肉でもないけど、お母さんはけっこうがんばったと思う。それが寿司のときもあるし、夕飯は豪華だ。なんとなく「ケンタッキーが食べたいな」とつぶやいてみると、その日はお父さんが買って帰ってくる。
 寝坊したことがあった。そのときはなんだか学校に行く気がまったくしなくなった。ふとんの中でぐずぐずしていると、「まだ寝てるの?」とお母さんが起こしに来る。「だるい。あんまり行きたくない」「そう。じゃあ、先生に電話しておくわ」と言って、お母さんは僕の部屋のドアを閉めた。


 学校で友達としゃべる。ふと、話題が自分たちの家の話になる。
「うちの母さんはさあ」
「ほんと、うっせんだよな、俺のババア」
「親父がいびきうるさくて、僕の部屋にまでひびいてくんだよね」
 その流れで、僕もうちの話をする。
 友達が呆然とする。みんなが「おまえんち、変わってるな」という。どうやら、うちはおかしいらしい。こいつらとの家とはちがうらしい。親がおかしいらしい。
 もうひとつ、気になることがある。
 うちの親はガミガミうるさいという話をよく聞かされる。こんな感じで親がうるさいという話が一番多い。学校でどんなことがあったのかよく聞かれるとか、ケータイいじってたらうるさいとか、食事中にテレビを視るのはやめなさいとか、歯みがけ、そうじしろ、勉強しろとか。
ある友達が「俺ら、もう中三じゃん。なのに、親が今度の休みに遊びに行こうとか言うわけよ。そんな年じゃねえよな」という。それに対してほかの奴が「僕は、けっこう旅行いっしょに行ったりするけどね」「うち、ゲームいっしょにするけどな」「なんだよ、きめえなあ。マザコンとかファザコンって言うんだぜ、それ」という会話が続いたことがある。
 そういえば、うちはガミガミ言われない。お小言というらしいが、そんなことはない。
 あと、親と遊んだことがあまりない。
 でも、朝家を出るときはやたらと「気を付けてね。車がいないかどうかちゃんと確かめて」とうるさい。夕方になると電話がある。『今どこ? 迎えに行こうか』と言われる。実際にいつもお母さんが車で学校まで迎えに来る。友達の家に遊びに行くことを許してもらえない。
 そうだ、うちは外出にうるさい。学校の行き帰りもうるさい。
 友達をうちに呼ぶことは全然かまわない。夜遅くなっても何も言ってこないことがある。「おまえんちさあ、そろそろ帰ったほうがいいよとか言ってこないよな」と友達に言われた。意味がわからなかった。


 周りが高校進学の話をしている。いくつか高校の名前が上がる。「そんなとこ狙ってんの? さすがだよな」「おまえには無理だと思うよ、ハハハ」「そろそろ勉強しないとヤバいよな」
 高校か。全然考えていなかった。将来のことなんか全然想像していなかった。高校に行かないという選択肢もあるみたいだ。働くかもしれない、と冗談かどうかわからないが、そんなことを言っている奴がいた。
 僕は、どうすればいいのだろうか。それよりも今日は誕生日で、お母さんが学校に車で迎えに来ていた。昨日から「明日の帰りは迎えに行くからね」と言われていた。
「乗って。シートベルト締めて」
「うん」
 少し走って、家に着いた。家の前には見たことのない車が止まっていた。黒くて大きな車だった。ワゴンみたいなやつだ。
 玄関に入り、客間の横を過ぎようとした。スーツの男が三人いた。お父さんと何か話していた。
「おかえり」
「立派に成長しましたね。よくがんばりましたね」
 男の一人が僕を見てそう言った。お母さんが僕の背中を押した。「部屋に入ってなさい。大事な話をしているから」
 僕の部屋は2階だ。階段を上がった。少し静かに上がっていった。会話を聞き取りたかった。無言だった。部屋に入り、ドアを閉めた。
 気になった。僕に関係する話をしていると思った。それはまちがいない。あの男たちは僕のことをまるで昔から知っているとでも言うみたいだ。
 部屋に戻り、僕はしばらくベッドに座った。
 やっぱり気になる。そっと部屋を出た。音を立てないように。
 ゆっくりと階段を下りた。お父さんたちの声はかなり小さかった。部屋のすぐそばまで行かないと無理だ。
「それではこのあと彼を連れていきますが、本当によろしいでしょうか」
「いいえ、大丈夫です。あの子に未練はありませんから。できるだけ息子だとは思わないようにしてきたんです。愛情を持ってしまわないように努力しました」
「なるほど」
「お約束は守っていただけるのですよね」
「状態を確認した上ですよ。最高の条件にあてはまるようであれば1億3千万お支払いたします」
「半年前の検査では最良だと言われましたよ。1億3千万、払ってくださいよ」
「ええ、状態を確認した上で、ですが。わかっていますよね」
「は、はい」
 半年前か。そういえば、僕はよく病院へ連れていかれた。そのたびに、悪いところは何もないと言われ続けた。肝臓だの心臓だの、内臓の状態を特に言われていた気がする。
「全国で待っている方が大勢いらっしゃいます。いくらでも払うという方が、ね」
「臓器生産受託をしてるなんてことがバレたらまずいので、そちらのほうも本当にお願いしますよ」
「当たり前ですよ。委託したこちらも危ない橋を渡っているのですから」
 臓器生産受託……何かで聞いたことがある。あれだ、都市伝説ってやつだ。
 金に困っている夫婦が将来臓器売買を目的に子供を産んで、成長させたら闇の業者に売ってしまうというやつだ。まさか、この僕が売るために育てられた臓器なのか。
 ギシと床が鳴った。
「聞いていたのか」とお父さんが血相を変えて部屋から飛び出してきた。
 僕は怖くなって、家から飛び出そうとした。玄関に向かって走った。男たちも追いかけてくるのがわかる。振り返らなかった。
「僕は売るために生まれたのかよ!」
「逃げるな! 止まれ!」とお父さんが叫んだ。せめて否定してくれよ。「ちがう」というセリフが聞きたかった。
「僕は金か!」
「頼むから逃げないでくれ! 待ってくれ!」
 もうだめだ。うちの家がおかしい理由がようやくわかった。でも、今頃わかっても遅い気がする。僕はただの売り物なんだ。牛や豚だ。体が小さく切られていって、いろんなところへ売られていく。
 どうしよう。このまま逃げてもしかたがない。
 どこへ行くっていうんだ。逃げた家畜が生きていくことなんてできないだろう。そういうのを映画で観た気がする。
 怒りも沸いた。お父さんとお母さんに。今まで育ててきたのはそのためか。うるさく言わない。相手をしてこない。自由じゃなくて、檻の中で放置していただけだったんだ。
 ひたすら走った。
 恐怖と怒りで、涙がぼろぼろ流れた。
 電車の走る音が聞こえてきた。近くの線路だ。
 気が付いたら踏切に向かって全力で走っていた。
 売られるものか。売られずに済んだとしても僕には将来なんてない。臓器として売られるために育てられた僕に高校とかそんなものはない。臓器になって売られるくらいなら、電車に飛び込むか。親がこれから生きていくための金になるくらいなら、ここで死ぬか。
 親だと思ってきた2人にせめて哀しい思いでもさせてやろう。今まで泣いたところを見たことがない。そうだ、これで泣かせてやろう。
 踏切がカンカンカンカン鳴りはじめた。さっきの電車とは逆方向のやつが来た。あれだ。
 今だ、飛び込め。

『相馬の仇討:江湖版』前編 楊生みくず

※年号のみは実在のものを使用しておりますが、人名・地名はすべて架空のものであり、万一実在のものと一致した場合もこの作品とは一切無関係であることをご了承下さい。

【真・相馬の仇討ち――表】

   一、

 木家荘(ぼくかそう)荘主の木軍(ぼく・ぐん)といえば、豊州はもとより、中原の武林(ぶりん/武芸界)において知らざる者なき大人物である。仁義に厚く、武芸に長けて、広大な土地と数多の有能な人材をかかえている。多少の嫉みそねみは避けられぬものであるから、陰で悪くいう者も皆無ではないが、表だっての誹謗中傷や、ましてや古い恨みを持ちだしての決闘沙汰などは、仕掛けたほうが己の首を締めることになる。唯一、人をして「惜しい哉」と大嘆息しめることといえば、その血をひく子が、六つになる木清(ぼく・せい)という男児一人だけであること――その前にも後にも、木軍はまさに男盛りであるにもかかわらず、夫人が身ごもることは一切なかった。
 夫人、といえば、もとは木軍が遇々にして兇賊から救ったのが縁で、身よりもないのを憐れんで側に置いたものである。が、未婚の男女のこととて、それも時が経てば女のほうの身に不名誉な噂がたつ。そこで互いに決まった相手もおらぬこと――と、一緒になった経緯があった。さらにいえば、木軍とはそういう男なのである。そういう男であるから、色恋沙汰どころか通常の男が持つ範囲での色欲にすら縁がないと見えて、夫人に二人目の子ができぬのに加えて、姨娘(妾)の一人も持たない、懇意にしている青楼の美姫もない。
 不思議なもので、木軍の血筋は決してここまで色に無欲ではなかった。木軍の父とて、夫人のほかに数人の姨娘を囲っていたのである。そして、その姨娘の一人の生んだ腹違いの弟の木衛(ぼく・えい)などは、天地に誓った夫人こそないが、風流な貴公子とて青楼での噂もたかい。
 邪険に扱われこそせぬが、弧枕を幾夜寂寞の涙で濡らしたか知れぬ木軍の夫人が、武芸はさほどでもないながら、詩歌をよくし柔情を知る木衛と通じだしたのは、建隆十四年の暮のことだ。木軍に気づいた様子はなかったが、それは本当に気づかなかったものか、あるいはわが子と木家荘の配下、さらには江湖の友人たちの手前、どう反応すべきかと迷うあまりの見てみぬふりであったのか分からない。一方で配下と友人は、早々と二人の関係に気づいて、それを隠そうともしなかった。批難と軽蔑の視線はともかく、荒っぽい連中も少なくないこととて、いつ刀槍が持ち出されてもおかしくはない。緊張に堪えかねたように、翌年三月には、二人は手に手をとって木家荘から姿をくらませていた。
 しかし、遁走はしたものの、広いようで狭いのが江湖である。二人は身分と名をいつわって山村の農家に身を隠していたが、身辺に木家荘に出入りしていた者らしき人影をちらほら見かけるようになり、また持ち出してきた金も底をついたものと思われて、大胆な行動に出た。如何なる論理で、如何なるやりとりが二人の間で交わされたかは知れず――四月六日夜、木家荘にとってかえした木衛は、寝入っていた木軍を刺殺し、こんどこそ完全に雲隠れしたのである。

   二、

 さて、江湖(こうこ)とは世間一般の謂だが、官界とは縁のない世界である。もっとも、感情面ではともかく、事件があればまったく無縁とはいかない、とくに人死が出たともなれば、お上とて捨ておくわけにもいかないから、木家荘にも県衙(けんが/県の役所)から役人が来た。
「賊は、塀を乗り越えて忍び入ったようですな」
「ええ、九爺(きゅうや/「九の旦那様」の意)は軽功がお得意でしたから」
 調べながらの言葉に頷いたのは、木軍の傍仕えで木家荘の雑務をこなしていた癸雎(き・しょ)という齢十七の少年である。もとは使用人として雇われていたのだが、利発さをかわれて荘の運営にも関わるようになり、いささかの武功さえも伝えられている。その癸雎が「九爺」と尊称する人物こそ、輩号(同姓・同世代の一族での出生順)が「九」である木軍の弟、すなわち木衛であった。
「さて、いかにも九爺は身軽でいらっしゃったが……」
 木家荘の人間はお上からも一目おかれている。役人の口調は少年癸雎に対しても丁寧であった。
「賊は覆面していたうえ、闇中でのこと。癸どのは一番に異変を察知され、賊と手を交えさえしたとのことだが、それだけで断言してはあやうい」
「賊が残していった刀は九爺のものでした」
「刀は偽造もできますぞ」
「いかにも。しかし、武芸はごまかせません。賊が使ったのはたしかに老爺(旦那様)と同じ木家刀法でした。それさえなければ、わたしも九爺ではなく、九爺を陥れようとする何者かを疑ったでしょうが……」
 そこに、事件現場の寝室を調べていた者が来て、あちらこちら、ひどくひっくり返したあとがあることを報告した。
「癸どの、物盗りの可能性もあるのではないか」
「いえ」
 きっぱりと、癸雎は首をふって、
「それで、いよいよはっきりしました。老爺の室を捜し回る物音といえば、わたしが事に気づいたのもそのおかげでしょうが……九爺が捜していたのはおそらく『木家刀譜』です。九爺であればこそ、捜さずにはおかれぬはずです」
「『木家刀譜』?」
 そこで、癸雎の語るに――木衛の武芸が木軍に大きく劣ったのは、正にその『木家刀譜』の武芸を習得していなかったためである。木軍は、才気はあるが軽薄な弟に木家刀法の真髄である『木家刀譜』の武芸を伝授するのをためらっており、
「九爺は興味のないふりをなさっていましたが、その隠し場所が知れれば、ことのついでに盗る心も起きましょう」
「ああ、そういえば木荘主の夫人と九爺は……」
 不名誉なことを口にしかけて、役人はそこで言葉を濁したが、示すところは明白だった。つまり、夫人こそが木家刀法の秘伝書『木家刀譜』の隠し場所を木衛に伝えたのではないか? ということである。癸雎は頷いたが、
「ただし、夫人が『木家刀譜』の在り処を知っていたか否かは定かならず、知ってはいても、真実を九爺に伝えたか否かも定かならず。いや、室を捜し回ったということは、少なくともはっきりとした在り処は知られていなかったのでしょう。目くらましに関係ないところも引っ繰り返した可能性も否定はできませんから、安心はできませんが。それとも、刀譜は見つけたうえで、金目のものをも攫おうとしたのかもしれません。実際盗まれたのかどうかについては、今の状況では何とも断定が難しいことではあります」
「癸どの、その『木家刀譜』は結局盗まれたのか、無事であるのか、確かめられましょうか」
「それができればよいのですが、あいにくと、隠し場所は老爺のみがご存知でした。夫人ならばあるいは聞き出していたかもしれませんから、先のような推測を並べただけなのです。心当たりの場所は、むろんこれから捜してみるつもりです」
 木家荘は広大である。一冊の武芸書を捜すのに、一日二日ではすまない。だが、『木家刀譜』を賊がさらっていったかどうかについてはともかく、その賊が木衛に違いないことはほぼ確かであった。もっとも、県衙の捕吏らが行った捜索は形ばかりのものである。木家荘は江湖の大組織、その主が殺された仇討ちに、お役所ごときが出しゃばる筋合いはない、というわけだ。知県(県知事)の久通(きゅう・つう)が、直々に、万一やむをえず捕縛するような場合には、そのあと必ず木家荘へ引き渡そうとさえ請合った。
 さて、しかし仇を討つとはいっても、殺された木軍の一子・木清はまだ六歳である。荘主の名前ばかりは継いだものの、家伝の刀法の手ほどきをうけてもおらず、第一、仇討ちの何たるかすら、理解がおぼつかない。それで、「君子の報仇は十年も遅からず」、ともかくも十五――というのは、たとえまことに『木家刀譜』が盗まれていて、その武芸の修練は不可能であったとしても、癸雎をふくめた木家荘の配下の知るかぎりの木家刀法をなんとか身につけられる年齢――までは雌伏のときということにして、以後、木清はひたすら木衛を討つために日夜をついやしたのであった。
 木清に付き合い、むしろこれを引き摺るように、武芸を身につけさせ、木衛への恨みを叩き込んだのは、ほかならぬ癸雎である。木軍の殺害を挫くことこそできなかったが、その下手人と一戦交えてこれを逐い、正体を暴いた功によって、荘主につぐ大当家(大元締め)の地位を得ていたにもかかわらず、癸雎はその権威には恬淡としていた。その一方で、葬儀の紙銭が舞うのを呆然と眺める木清に、「憶えておきなされ。仇の名は木衛である――と」と囁いたのを皮切りに、朝夕ごとにこれと並んで報仇の誓いをたて、武芸の鍛錬は木衛の姿を模した人形に対して行わせた。しかも、数年がたっても喪の印たる白い腕章を、己の黒衣の上からとらなかった。事実上、木家荘をとりしきっている癸雎がこのようであるから、当然、木家荘の配下も木衛憎しの感情を募らせて、手は出さぬまでも、各地に手の者を遣ってその動向を探った。
『木家刀譜』はついに見つからなかったが、木清は、木家荘の者が知るかぎりの刀法を身につけていた。若年であり、まだ実戦の場数も踏んでいないから、その腕は一流とまではいかないが、癸雎の影響もあってか黒衣に喪の章をつけて修練に励む姿は、江湖の好漢に「これぞ孝子よ、少年英傑よ」と親指立てての賞賛を少なからず受けたのである。
 それからさらに二年余が経って、木衛らしい風貌をもつ男が、いま仙州にある、との報をもたらしたのは、五当家(五番目の頭)の弥(び)という男である。癸雎も若いが、これはさらに若い。若いだけに、木衛討つべしの念に人一倍燃えているところがある。本来の名を何といったか――木家荘での当家としての序列が五番目であるから、皆、弥小五(び・しょうご)とか、もっと簡単に「五弟」としか呼ばない。
 すわこそ、と木家荘は沸きかえったが、さてそれが突如大挙して仙州へおしよせるわけにはゆかない。組織としての体面上、いかに向うに非があるとはいえ、一人に対してあまりに大勢でかかることが憚られたためもあるし、まず情報の真偽を探る必要があったためもある。そして、真偽を探っていることは、絶対に相手に悟られてはならない。それが他人であればともかく、木衛は残忍ながら狡猾な男、疑われていると思えば用心して、万に一つも尻尾は出さず、別人のふりではぐらかされてしまう、というのが癸雎の所見であった。かくて仙州へは木清のほか、わずかに癸雎と弥小五のみが、それも薬商人に身をやつして向かったのであった。
 弥小五の話によれば、その男は講釈師に身をやつしてはいるが、武林の者であることは間違いないという。もっとも、それは当人も否定せず、あることで重傷を負って武功の大半を失い、今は刃傷沙汰からは遠のいているのだという触れ込みらしい。もちろん木衛という名は出てこない、その男は游喜郎(ゆう・きろう)と名乗っていた。
「あること、というのが、その妻とのいざこざで、妻のほうは殺されたらしい、という話を聞きましたが、大当家はどう思われます?」
 と、弥小五。癸雎は眉をひそめて、
「いまは、そのような呼び方をするのではない。何処に耳目があるかわからぬ」
 二人は、商家の使用人の出で立ちをしている。
「はい、はい、大哥(大兄貴)」
 弥小五は呼びかけを改めて、
「しかしどうでしょう、どうでしょう、この話は」
 癸雎の顔色をうかがう。
「五弟、あまり思い込むものではない。ただ……木家荘の九爺であったのが今は講釈師とは意外だが、そのぶん姿を隠すには好都合、とは思う」
「やはり、そうでしょう。木衛はそこを計算に入れたに違いありません」
「しかも、もともと口のうまい男だった」
「ならばいよいよ、講釈師に化けるのはたやすいはずです」
「しかし思い込みは禁物だ。今から逸るな。どのみち、木衛の顔は憶えているから、実際に見れば十中八九は判る。少爺(若様)は――九年前にはまだ幼くあられたから、どうかと思うが」
「いや」
 さえぎったのは当の木清、これは呼びかけられたとおり豪商の少爺ふうの身なりをしていたが、その瞳を十余年来の恨みに燃やして、
「斬るべき者の顔は、日夜瞼にまで刻んでいる。見れば判る、判らぬはずがない」
 激しく断言した。
 ところが三人が仙州についてみれば、件の講釈師は逃げ水のごとく、今度は磐州へ向かったという。こちらの疑念に気づかれたかというと、前後の様子からしてどうも違うらしかったが、また逃げられてはたまったものではないから、三人は日に夜をついで磐州へいそいだ。ところは相馬県である。

   三

 裕福な商人らしく、その地では名高い客桟に宿をとりはしたが、もちろんゆっくり休養できる気分ではない。通り一本はさんだ酒楼(飲食店)街で、最近もと武芸者だという美丈夫が講釈をおこないだして、それが同宿の客ばかりか使用人にまで好評を博しているだけに、嫌でもその話が耳にとどくのだ。癸雎は二人をなだめて、
「まだ当人、と決まったわけではありません。しかも、当人であれば、木衛が『木家刀譜』を学んでおることにほぼ間違いはないのですぞ。万全の状態の我らが三人がかりでさえ討てるかどうか分からぬものを、旅の疲れも癒えぬうちから挑戦して、万に一つも老爺の仇が討てましょうか。わたしがその男を見て参ります。少爺は、まずは英気を養いなされ」
云うなり、ふらりと客桟を出ると件の酒楼――太白楼へ入ってしまった。講釈師を呼ぶだけあって、なかなか賑わっている。楼の中心は吹きぬけになっていて、一階に設えられた舞台は二階、三階からでも見える。癸雎が三階に席を選んだときにはそこで人形劇をやっていたが、汾酒(酒の一種)と椒炒鴨子(香辛料のきいた家鴨の炒めもの)をたのんでしばらく、その一座はひっこんで、かわりに四十前後と見える男が出てきた。
「游郎(游さま)ー!」
 近くで黄色い歓声があがって、振り向かれたとき視界に入っては――と咄嗟に顔を伏せた癸雎だが、歓声は一階と二階からもあがっている。こちらの声はそれに紛れて、游喜郎の目が癸雎に向けられることはついになかった。声援があらかた収まったところで、游喜郎は口上がわりの詩を、琵琶爪弾きつつうなりだした。
「紛紛五代乱離間 一旦雲開復見天(五代にかかる戦乱の雲、開けば再び天ぞ見る)
 草木百年新雨露 書車万里旧江山(生うる草木に新玉の露、書車連なるは経りにし山河)
 尋常巷陌陳羅綺(綺羅の衣は街にならんで)……」
 邵雍・尭夫「観盛化吟」、ということは宋朝のお題でもやるつもりなのだろう。考えながら、ようやくちらりと目を遣ると、目鼻立ちには見覚えがある。そこで、さっき歓声を上げた女をこっそり手招きして尋ねた。
「あの游喜郎とかいう者は、武芸の腕もたいしたものだそうではないか」
「ええ、ええ。けれど、そのためにひどく傷つかれたことがあるそうで、今はすっぱり武林とは縁を切ったそうですよ」
「詳しいな。有名な話なのか」
「友だちの小玲(しょうれい)が聞いた話ですわ。おかわいそうな話だけれど、游郎ってあのお顔にお声でしょう。皆、あの方のことなら少しでも事情を知りたいものだから、こぞって小玲から聞きだそうとするの。有名というほどではないけれど、今じゃ知る人ぞ知る話ですわ」
「いったい、どういう話か、うかがってもよろしいか?」
 女がこれを拒むはずがない。何のかんのといっても、結局のところその話を知っているのが自慢で仕方ないのである。そもそも承知のうえで、癸雎は聞いたのだった。はたして、
「游郎は、数年前まで夫人と一緒に江湖を渡っていて、夫人のことを、それはそれは愛していたのだとか。けれど、夫人は実は仇敵の一族で、ある日突然斬りかかってきたのですって。いきなり斬りつけられて、身を護るために游郎も抵抗したのだけれど、怪我をしたために反撃のときに手加減もできず、狙いも狂ってしまったそうなのです。夫人は即死だったけれど、游郎も大怪我した上に、信じていた人に裏切られたのがよほど心に響いたのでしょうねえ」
「それで、武林から退いたのだな」
 癸雎は頷き、たちまち席を立って太白楼を飛び出していった。
木清、いわれたとおりに心を静めて気を養う合間に、弥小五を相手どって「あちらが『鉄鎖横江』で攻めればこちらは『水向東流』で受け流す、『二郎開山』の招に対しては『暴風李花』で逃げると見せかけて、『風声鶴唳』で脇を攻める」などと口頭での技の応酬をして実戦に備えていたが、室の扉が開いてはっと振り返った。癸雎の口から一言も出ぬさきに、顔色で察して、
「やはり」
 刀をひっつかんで躍り上がる。
 そちらは止めなかった癸雎だが、弥小五もまたついて出ようとするのへは、
「おまえは待て」
 と引きとどめた。もちろん、二人に万一のことがあってもせめて木家荘に報せる用心のためである。
 太白楼の入り口まで来れば、内から漏れ出す游喜郎の声――
「中霄(なかそら)に、吉祥の雲がたなびき瑞気たちこめるとみるや、突如閃く紅の光――目の前に怪物の子どもが落っこちてきた。頭に二本の角を生やし、真っ青な顔に真紅の髪、大きな口に牙をむき……」
 つと傍に寄ってきた太白楼の若い衆が、入り口で立ち止まったまま、食い入るように講釈師を見つめる二人に話し掛けた。
「もし、お客様。ちょいと此方へ。幇主(親分)が、お話があるそうで」
「幇主?」
 聞き返す木清。
「ええ、このあたりを仕切っている嘯天幇(しょうてんほう)の、馬正(ば・せい)馬幇主ですよ。お二方は木家荘の方でございましょう? お噂はかねがね、御用向きは前荘主の仇討ちで、間違いございますまい。悪いようにはいたしませんから、さあ」
 突然のことで、木清には咄嗟に判断もつかない。ちらりと癸雎に目を遣ると、かすかに頷いてみせたようだ。そこで、
「参ろう」
 若い衆に続いてすいと入り口を離れていった。

   四

 游喜郎がさんざん歓声をあび、祝儀をあつめて太白楼を出たところで、
「游の兄弟」
 もうすっかり暗くなって、物の形も判別がつかなくなった建物の陰から、それでもぼんやり灯りの届く路上に、一人の男が現れた。見覚えのない顔ではない。江湖を渡る身として、相馬県で商売を始めるときに嘯天幇に挨拶をとおしたが、そのときにたしか見かけた、執事の石什(せき・じゅう)という男だったか。
 それが一体何の用かと訝る一瞬に、さらにいくつかの人影が両脇と前後をふさいで、
「嘯天幇に、お主の客人がある」
 というのは、来い、との意に他ならない。客というのも、穏当な手合いではなさそうだ。どうも剣呑な雰囲気ではあるが、逃げようにもこうまで囲まれては道がないし、まさか自分の素性が露見したとは思わない、嘯天幇というのも、木家荘ととくに親しい幇会ではなかったはずだから、ここで何年来になるやら知れぬ蛮勇を奮うよりはと、游喜郎はおとなしく幇主の馬正の邸へ従った。その門を潜り、庭を抜けたところで、
「游兄弟、いや、木衛――木九爺と呼ぼうか」
 小亭(あずまや)から歩み出してきた馬正が声をかけて、ようやくぎくりと血を引いたのである。
「木、とは?」
 咄嗟に空とぼけはしたが、背筋につうっと冷汗が伝った。
「講釈師のくせに木家荘の事件も知らぬとは」
 背後で石什が冷笑し、続けて、
「しかし九爺、まさかご自分の身内までお忘れではありますまい?」
 これも冷ややかながら、はるか昔に聞いた覚えのある声がいって、思わず木衛は振り向いている。
「癸雎、貴様か」
「わたしよりも、甥御へ挨拶なされよ。いや、お詫びなされ。その父を殺したことを」
 癸雎の名を口にしたときに化けの皮は剥がれているから、前後をかためる嘯天幇の配下は色めきたった。木清を急かすように、「殺せ」と叫び出す奴もいたが、木清のほうは身体も動かず声も発し得ぬ様子で、ただ両の眼を光らせて木衛を睨みつけている。それを見つめ、癸雎を睨み、木衛は何かいいかけたが、
「木衛を捉えよ」
 石什が一喝するのが早かった。続けて、
「鎖に繋いで、地下牢に放り込んでおけ。要らざることを喚いても、声が漏れぬようにするのだ」
 指示を下すかたわらで、馬正は木清に頷いている。
「木荘主、仇を捕えられましたこと、まずはめでたい。しかし、すでに日も落ちておる。相馬県にも今朝方はいられたばかりとのことで、さぞやお疲れでしょう。木衛の身柄はこちらで預かっておきます、どうか今夜はゆっくりおやすみになって、正々堂々、仇に報いるのは後日にしては」
 自らの幇会を動かして木衛を捕えながら、あたかもすべてが木清の手柄であるかのようにいい繕い、動きの取れなかった醜態も、巧みに疲れのせいにしてしまったものである。しかも、このあと牢に繋がれて一夜を過ごすことになる者と、快適な宿で休養をとる者との勝負で、正々堂々とは。もっとも、馬正のような立場の者が自らの卑怯を認めることなどは絶対にないものなのだ。

   五

 ときに、乾隆二十七年。
 仇討ちの決闘の場は、馬正の邸の一画にある練武場であった。直径およそ八丈はあろうかという巨大な円形の擂台(演武台)の周りに、当事者たる木清、癸雎、弥小五と、対する木清のほか、嘯天幇の幇主・馬正と執事の石什、くわえて周辺の江湖の名士がほとんど勢ぞろいしていた。江湖で、噂が広まるのは極めて速い。しかも、木家荘の十二年前の悲劇は知れ渡っていたから、駆けつけられる者は上から下まで、とるものもとりあえず嘯天幇に急いだ結果である。
 木清ら三人は、その全身を喪の白衣に改めて、額にも白布をまきつけていた。木衛のほうは、さすがに捕えられたときのままの游喜郎の服ではなく、もっと質素なものに着替えさせられていたが、髭もそらず、髪も乱れて、わずかばかりの地下牢暮らしでの憔悴も明らかだった。
擂台に先に上がったのは木清ら、そのあとで、まだ手枷を付けられた木衛が、嘯天幇の配下に引き立てられて上がった。
「木衛の罪は重く、江湖にその名を聞いて唾棄せぬ者はない。いま、枷に繋がれたこやつをそちらの三人で膾(なます)にしようと、非難する者はおらぬだろうが、木小荘主、あくまで決闘されるお心か」
「そのつもりです」
「後悔はなさるまいな」
「無論。ただ、力及ばず父子ともに賊の刃に斃れることになったときには、わたしの墓前に我が仇の首を供えて下さるよう、この場の皆様にお願いしたい」
 木清がはりあげた声に、好漢らが口々に承諾の応えをかえし、ようやく木衛の枷が外された。ついで刀を渡すと、嘯天幇配下の男はすばやく退いた。これで、擂台の上は決闘者四人のみとなる。だがそこで、木衛が刀も抜かぬまま、擂台をかこむ群雄に眼をめぐらすと、突然、木清に膝をおって抱拳した。
「荘主。木家荘の名声をお護りいただけたこと、木衛心より感謝いたす」
 木家荘の名声を護ったとは、観衆の揃ったなかで、仇討ちを敢えて決闘の形で行ったことに相違ない。枷に繋がれたままの木衛を斬ったところで、なるほど非難はされるまいが、木家荘の荘主は臆病者、との謗りは受けかねないのである。
「それを、おまえが云うのか」
 と、木清。
「他人の謀略に乗せられて老荘主――大哥(兄)を害したことは、悔いても悔やみきれぬ。木家荘と小荘主のことは、片時も頭を離れなんだ」
「父上を殺したのは、母上の企みとでも言いたいのか? その母上を殺したのもおまえのくせに、よくも白々しいことを」
「そう聞こえても、いたしかたはござらぬ。が、わしはあくまで心の内をありのままに述べたまで。もし、それが荘主のお気に召さぬようであれば、刃を交える前に、過去の恩縁の一切をきっぱり断つのも好しとも思う」
「では、そうしよう」
 擂台の上に、酒が運ばれた。
「これを呑めば、わしと荘主とは、叔父でも甥でもなくなる」
「そういえば、叔父・木衛には幼い頃よく世話になりました」
「そんな記憶もあるが……この盃を干したあとには、全てなかったことに」
「恩縁をきっぱり断つのなら、いうまでもありますまい」
 それぞれの盃を満たした酒を、もろともに、一息にあおって、空になった盃は地に叩きつける。

   六

 癸雎と弥小五は、もとより木衛と恩縁というべきものを持っていない。盃が砕ける音とともに、四人ほぼ同時に刀を抜き払った。数がまさる木家荘の三人が先に動こうかという見物人の予想に反して、先に足を踏み出したのは木衛である。癸雎と弥小五が左右に散開して木衛の斜め後ろに回りこみ、これを牽制しようとする。
 不意に、木衛は天をあおぎ、からからと笑声を放った。あまりの異様さに、木清が気圧されたようにじりじりと後退り、弥小五も眼を見開いたまま凍りついた。これはまずいとばかり、癸雎が一刀を薙ぎつける。まごうことなき木家刀法、「紫電劈空」だ。木衛も、笑いつづけているとも聞こえる奇怪で獰猛な雄たけびをあげて、「真君招雲」の一手を返した。
 我に返ったように、木清と弥小五も構え直す。癸雎が跳び退がって木清に場所を譲ったが、木清は『木家刀譜』の技が出るのを用心して、「細雨屑屑」、初手から守り重視の技を選んだ。木衛はつけこもうとせずに癸雎を追い、今度は「正邪回頭」の手を繰り出した。癸雎は受けはしたがよろめいて、横から飛び込んだ弥小五のおかげで、どうやら体勢を整える余裕を得る。
「長引きそうですな」
 群雄の中で呟いた男がいる。武科挙(ぶかきょ/武官登用試験)に通って六品校尉となり、数年前江湖を退いた蜀子軽(しょく・しけい)という人物、かつては「飛天剣」と呼ばれた武芸の達者だ。隣にいた石什が聞きとがめて、
「何ゆえにそう見られる?」
「木小荘主の腕はまず普通、大きな破綻はないが、勝負の駆け引きをご存知ない。先の一手など、思い切って踏み込めば腕の一本が落とせぬとも限らなかったものを、ああ消極的な手を使われるとは。慎重なのは好いにしても、それが過ぎて勝機も逃し放題だ。木衛は、見かけによらぬ残忍狡猾な性状の持ち主と聞く。なるほど刀の勢いには迷いがなく苛烈だが、技も力もこれといってとりえがない。やはり、普通。一対一ならばともかく、三人相手では容易に勝機を掴めぬだろう」
「なるほど」
 はたして、二刻(一刻は百分の一日。約十五分)たっても勝負はつかない。木清はさんざん踊らされて汗だくとなり、足元がもつれている。木衛もまた、数箇所に浅手を負って少なからず出血したために顔面蒼白、癸雎と弥小五は二人よりまだましながら、木清に堂々と仇を討たせることこそがこの決闘の目的だから、なかなか必殺の手は出せない。皆の動きがだんだんと鈍って、ただにらみ合う時間が長くなってきたのを見かねて、馬正が休みを挟むことを提案した。
 用意された日陰の席に、ぐったり座り込む木清に、癸雎らも群雄も、口々に励ましの言葉をかける。先の蜀子軽が寄ってきて、
「木荘主、あとわずかというところで、いつも押しが弱い」
 例の評をいまいちど述べた。
「それが、『木家刀譜』の技がいつ出るかと思うと、いまひとつ打ち込み難く……」
 相手が名高い「飛天剣」と知って、木清、率直に応える。刀譜の盗まれた話は、そもそもの事件とともに広まっているから、いまさら隠すこともない。群雄らの中にも、あるいは盗まれた刀譜にしるされた刀法を木衛がふるいはせぬかと、それをあてにして、得んベくば技を盗もうとこの場にたかっている奴も少なくないのだ。
「分からぬでもありませんが、しかし見たところ、木衛の刀法は荘主に比べて一日の長があるという程度。やってやれぬ相手ではない、ましてやこちらの癸どの、弥どのが隙を誘い、あるいは守りのために動かれるのなら、かならずや荘主は仇を討ち取れましょう。思い切ってやって御覧なされ」
「そのお言葉に、迷いが晴れました」
「それは重畳」
 蜀子軽は莞爾として、
「それと、もうひとつ」
「お聞かせ下さい」
「とうにお気づきかも知れぬが、木衛の刀法、手の順序に妙な癖があります。それが『木家刀譜』に関わるものなのかどうか知るべくもないが、それがしの見るところ、むしろその順序に固執して本来の実力を出し切れていないことのほうが多い。あるいは罠かもしれませんが、頭の隅にとどめておかれてもよろしいかと存ずる」
「順序とは?」
「まずは、こう……そして、こう」
 蜀子軽、己の剣を刀に見立てて実際に数手を演じる。
「『真君招雲』、『正邪回頭』、『九霄直下』……」
 木清にも癸雎らにも、いわれてみれば憶えがある。そこへ、石什がやってきて「そろそろ続きを如何か」と声をかける。ちょうど意気のあがったところで、木清らは一も二もなく頷いた。
 さて再度の勝負、たしかに木衛の振るう刀法は蜀子軽の指摘どおりの手順である。「穆然有風」の次は「家山望月」、と記憶していた木清は、そこで思い切って渾身の「狂沙万里」――「家山望月」を破る技を繰り出した。
「好し!」
 と、木衛が一笑した。次の手を読んだことへの賞賛ともとれたが、笑いつつ、木清の動きを無視した「家山望月」を振るっている。もちろん刀はあらぬ空間を斬り、木衛の左腕はまともに木清の刀にぶつかる、そのままほとんど自らの勢いでばっさり斬り落とされた。
 しめた、と木清はたたみかけようとする。しかし腕のなくなったことにも気付かぬように、依然として順序どおりの刀法を振るう木衛の異様さに寒気を覚えて、心ならずも全身が痺れたように動かなくなる。見かねて、弥小五が飛び出し、同じく技を読んで繰り出す一刀――これは、太腿を裂いた。どうやら、技を読まれているのは百も承知で木衛は刀法の順序を変えぬ気らしい。いぶかる気はあるが、ままよとばかり、今度は癸雎が見舞った一手、木衛の右腕の肘から先が、握った刀ごと宙高く飛んだ。
 ここでようやく、木衛は動きを止めたのである。己の血潮に半ば染まった顔を木清に向けて、
「『之字路難』の次の手は?」
「『洲汀落鴻』」
「好し、覚えたな」
 云うなり、木清に突っ込んだ。驚駭した木清が思わず技もなにもなく、一刀を突き出して阻もうとする。その切っ先がみごとに木衛の胸板に突き立ち、突進の勢いと身体の重みで背まで貫いた。静まり返ったのも一瞬、すぐに満場、喚声と賞賛の声に沸きかえった。十二年来の仇討ちは、成ったのである。騒ぎの中で、木清はなんとか蜀子軽をみつけて礼をのべたが、興奮のつきぬ群雄たちの中で、あっという間にはぐれてしまった。
 なにかといえば恩仇のけじめをつけたがる江湖の気風ゆえ、仇討ちそのものは珍しいものではないとはいえ、なにかのどさくさに紛れてではなく、このように場を設けての堂々たるものは江湖でも稀、以後、「相馬の仇討ち」といえば広く知られるようになった所以である。