『清十郎たち』日向敏

 仇討ちが終わったあと、佐々木清十郎にしたいことはなかった。もちろん、当日は盛大に祝賀されたし、自分でもひとかどの人間になれた気がしたものだ。墓に参り、父よ敵は果しましたどうぞ御霊安らかにお眠り下さいと涙を流したのも嘘ではない。墓は、家臣である中川十内の指示によりいつもとどこおりなく磨き立て上げられていたが、それでも裏面に彫られた文句には、やや土の痕があった。先日降った砂塵まじりの雨の名残であろうか。ふと顔をあげると、捧げてあったのは濃い紫の菊で、清十郎は、理由しらず懐かしい気持ちにおそわれた。それから、紫は母が好んでいた色だと思い当たり、今も屋敷には帰らず逃亡している母をこっそりと美化して自分を慰めもした。殿と静かに語りあっておられるのだろう、邪魔をしてはならぬ。敵を討った腕は十内仕込み、はばかって表立っては言えぬが顔立ちはあの方と見まごうほど。でも、まっすぐで優しい心根は殿そっくりであられるから。気をきかせて従者たちが場を離れていたのを幸いに、清十郎は声を殺して泣いた。線香からはすこしだけ白檀のかおりもした。
 ただ、両親の思い出をあれこれ夢に見て感慨にふけったのはその日ばかりであった。もともと清十郎は禄高こそ低いが城持ちの殿様である。仇討ちの完遂には、彼のみならず彼を擁する藩の存続がかかっていたのだ。仇討ち後、四十九日を待たずして清十郎は初めて江戸にあがった。他の城持ちたちとともに大座敷で頭を垂れているさなか、見送ってくれた十内の満足気な面持ちが思い浮かんだ。これから清十郎は藩をしきらねばならない。十内は陽射しをふさぎながら立っている老いた大樹のようなもので、仇討ちが終わったあとは若木たちのために倒れるばかりである。城内では、十内の位置を狙ってすでに自分にすり寄ってくる者も多い。若殿が仇討ちに専心しているのをいいことに、ここ十年あまり、家臣団の中では汚職が横行していることも悩みの種であった。清十郎は江戸から帰ると、手始めに城内の膿を一新せんと改革に手をつけた。その八年後、その日だけ不用心にも開け放たれたままになっていた庫裏から侵入した浪人どもとその子らに、彼は寝所でなぶり殺しにされた。

 四十九日の法要のあと、清十郎にしたいことはなかった。もちろん法要の最中は、説教をききながら、なるほど我がつとめは父が興した店を守りさらに販路を拡げていくことだと深く感じ入りもしたのである。しかし、決意というものにかけては流れの早い浅川のように留め置くことが出来ない性であるから、坊主どもが奥にひけ、境内に取り残されると、とたん、清十郎はぼんやりしはじめた。いつもはうるさい親戚連中は、相談事と噂ごとにふけるために三々五々散ってしまい、あたりは静かで、音といえば目前から不快な羽音がするぐらいだ。その羽音が遠ざかり、地蔵につけられた前垂れにぷんと虫がとまるのを彼はじっと見た。虫の羽から透けて見えるのは青黒くぴかぴかした胴体だった。清十郎は、夏に女郎たちが素肌に濃紫の紗を羽織って夕涼みしているさまを思い浮かべた。しずかな白いやわ肌が見え隠れするのと、立ち上がりしな、日に焼けた肌がするっと剥け見えるのとどちらが好みか、そのうち悪友たちに訊かなければならないと考えた。
 そうしたぼんやりをひきずったまま一年ほどがすぎたころ、業を煮やして声をかけてきたのは番頭の十内であった。番頭と言っても帳面を預かる大番頭であり、清十郎の父亡き後はほとんど旦那のようにこの大店をしきってきた。清十郎の実家は江戸の始まりよりも前から続く回船問屋としてつとに有名である。その血をひく清十郎は商いの才はとんとなかったが、生まれつき愛嬌だけはあった。その可愛らしさたるや、熟達の産婆が思わず連れて帰りそうになったほどである。加えて、清十郎は父が五十の境が見えてからようやく授かった子どもであった。彼がまだ腹にいるうちから、子どもの生育に悪いからと、上は旦那から下は小僧および出入りの者たちまで、皆とがった声は出すなと貼り紙が店内に貼られるほどで、ようするにべらぼうに甘やかされて頭の軽いぼんぼんになることがほぼ決まっているような子どもだったのである。しかし、彼は継嗣である。十内はそれをわきまえて厳しいしつけの任にあたってきたから、清十郎は十内に弱い。十三の年に吉原に遊びに出たことがバレてからはますます弱くなった。それで、十内が清十郎にある店で手代として働くことをもちかけたときには、半ば断ることを忘れていた。そこは、十内の知り合いの店であった。話によれば、清十郎の祖父が嫁をとるときに仲立ちをしてくれた者の縁者がやっているのだという。清十郎は頷いた。というより、首が上下したのを十内が肯定と見なしただけやもしれない。清十郎は三日ばかり働いてから、放蕩癖がすぎることに呆れられ、あの大店の子どもといえど許せぬと追い出された。


 楽すぎて暇なバイト先を馘首になったあと、清にすることはなかった。もちろん、当日はおおいに友人たちと飲み明かしたし、あんな店つぶれてしまえと大きな声でさけんですっきりしたものだ。思っていたよりも多かった通帳の残高に思わず笑みがこぼれたところだけは見せてはいけないとわかっていた。ただ、自由を満喫したのは一ヶ月だけだった。
 一ヶ月後、かつかつになってきた清に声をかけてきた者がいる。十内である。十内は勤労学生という言葉を再現することに熱心なあまり、授業に出たことは一切なく、ただ毎日バイトにはげんでいた。初めて出会ったのはサークルの新入生歓迎第二次コンパが催された会場のすぐ外で、彼は客引きをしていた。金髪と、よく見るとくたびれたスーツがよく似合っている。清のうしろで、まだ何とか理性を保っていた先輩が十内の素性を耳打ちした。こちらに金がないと知り、まったく声をかけてこないのが無性にくやしくて、清は自分からひっかかりにいった。すると十内は、人間行動情報論A期末試験の過去問とひきかえに、ソープをおごるともちかけた。清はとりあえずソープに行き、そのあとサークルの先輩からうまく目的のものを得た。十内はその試験に出てこなかったそうだが、なぜか単位の認定はうけていた。それからときどき二人はつるむようになった。先だって辞めさせられたバイトも十内を介して紹介されたものだ。その十内が自分のバイトを手伝わないかという。清はいちもにもなくとびついた。どんなバイトかと聞くと、にやりとして答えず、ただ、翌日どこそこの河原に来いという。興味をひかれ、清はうかうかと出かけた。すると、十内が竹を組んでいる。これで柵をつくるのだという。柵のなかで決闘が行われるという話だ。冗談だろ、と笑いながら清は柵づくりを手伝った。柵づくりは清の得意とするところだった。幼いころからボーイスカウトに通わされていたおかげで、竹を麻縄で括る作業はなれていた。ボーイスカウトの先輩にこづかれながら何十回となくやらされてきたのだ。柵を作り終え、土手をぶらついていると、自分と同年代くらいの生真面目そうな学生と、どことなく余裕があるチャラ男という二人組がやってきた。どうもそれが決闘をするやつららしい。清は学生から給金を渡されたのが釈然としなかったが、二人の瞳を見るに、これはよくよく因縁ある決闘にちがいないと悟った。ぜひとも見物しようと二人はその場に居残ったが、竹柵の内よりぴかりと鋭い眼光をあびせられ、ほうほうのていで十内と一緒に追い出された。


 決闘現場から追い払われたあと、セイジューローにすることはなかった。もちろん、当日はいつもよりちょっと豪勢なピザを頼んだし、そこらのたちんぼにコックをしゃぶってもらってすっきりしたものだ。帰りしな、もうすこしねばったら入れさせてもらえたかもと思わないでも無かったが、そこまで望むにはもうすこし星のめぐりがよくないといけないと思っていた。だいたい、生まれてこのかたいい星の導きがあったためしが無く、すこし上向き加減の時があってもどこかで逆風が吹き荒れるのが常である。それでもセイジューローは一時の快楽を卑下する気はなかった。ただ、うかれ調子のままでいれたのは、やはりそこまでだった。
 二週間後、セイジューローはダウンタウンでごろつきどもに絡まれそうになった。妙にお高くとまってる、というのが因縁をつけられる原因になった。この程度の火の粉の払うには身上を明かせばいいとは分かっていたが、いくら零落したとはいえ、自分が元々日本移民から裏社会のボスにまでのしあがった一族の出身だと喧嘩の最中にばらすわけにはいかない。それはほとんどすり切れてなくなったとはいえ沽券にかかわるのだ。セイジューローは生意気な表情のまま黙り込んだ。あやうく袋にされるところを助けたのはトナイだ。トナイはセイジューローの近くで決闘のもぎりをしていたやつである。セイジューローとは違い、決闘も見たらしい。そんな彼が自分と同じように疲れているようだったのが気にかかったが、その顔をみたとたん、疑問はふっとんでしまった。トナイの目はらんらんと輝いていた。「強盗に入らないか」。勢いにおされ、話はすぐまとまった。翌日深夜、忍び込んだ大型小売店には思いがけず人がいた。店員がひとり、女を連れ込んでコトに励んでいたのである。ふたりともぶち殺してやろうと近づいてから、セイジューローは、かつて自分の母を奪い、父を殺した叔父が目の前にいることに気づいた。叔父はセイジューローを見返した。叔父の胸毛は栗色だった。思わず、かあさんは、と問うていた。「知るかよ」「ぼうや、今あたしたち取り込み中なの、わかるでしょ」「どっちかといえば埋め込み中だな」「ふふ、……ぁあん!」「ああそうだ、いつのことか忘れちまったが、いつもサンダルウッドのにおいをぷんぷんさせてやがった女をついつい蹴り殺しちまったことがあったな」。その目があまりにも魅力的だったので、彼は母が落ちたのも道理だと思えた。叔父からは流行の香水と精液と汗の混じった匂いがした。勃ったポールがジッパーを突き上げていた。トナイは裏手から逃げだしたが、立ちすくんでいたセイジューローはかけつけた警官に逮捕された。


 牢にぶちこまれたあと、清十郎12021891はすることがなかった。己の成果が目に見え、多少なりやりがいをだれしも得られる工芸系工場系の仕事はもとより、まいにちひたすら木を切って薪をつくり真夏に燃やすだの、穴を掘っては埋めるだのといった徒労だけが残るような作業にも回されなかった。というのも、清十郎12021891になにかしら仕事を与えたら、彼はそれを精力的に行い、むしろこれまでよりも身体は健康になり、頭脳は明晰になるだろうと刑務官たちが判断したからだ。もちろん、その判断を下した刑務官たちはすっかり叔父に買収されていた。清十郎12021891が収監されたのは天下の網走刑務所であった。してはならぬことだけは山ほどあった。箇条書きにしてもブリタニカほどの分厚さになっただろう。さらに、清十郎12021891は名目上は事情聴取のための勾留であったため、たびたび尋問室に押し込まれた。目つきの悪い、どことなく叔父に似た面持ちの警部と妙に笑顔を絶やさないもう一人とに、小突かれ、なだめられなければならぬ。争点は主に清十郎12021891がいつどうやって清十郎12021891のパッチを手に入れたかであった。「以前の記憶がなくなったフリしたってそうは問屋がおろさないありえないことだってことぐらい分かってるぞ」「別にパッチが悪いとは言わないがそれは君自身をも侵すものなんだ」「ここにおいては沈黙は金じゃない銀ですらない多弁こそが金だ特に真実の多弁はな」「もう君も疲れただろう早く部屋に帰りたいんじゃないか」「気取っていれるのはここまでだ社会擾乱罪でひっぱられたいのか」「パッチをつけてなにになるというんだ本来の君自身が上書きされてしまうのは怖くないのかね」「どうせ刀を格好よく振り回したいとでも考えたんだろうが結局は心身を鍛えないとどうしようもないってのにも気づかない馬鹿が」「取引相手の名前なんて覚えていないだろうからそれはいいんだせめてどこでそいつと落ち合っていたのかだけでも思い出せないか」。しかし清十郎12021891は常に今後のことを考えていたので二人の言葉はほとんど耳に入らなかった。
 十日後、配給されたパンのなかに手紙が入っていた。清十郎12021891はパッチがあたっているため、他のパッチなし囚人とは別の棟に隔離されている。ゆえに、食事も別になっていたのだが、それにしてもどうやって仕込みをしたのか彼にはわからなかったし、興味も無かった。ただ、十内24021934に頼めば手に入らない情報はないというのは本当だなと思い、一瞬だけ尊敬の念を刻んだ。清十郎12021891は手紙を下の裏側に潜ませたままにし、巡回が切れるのを見計らってやけにぐにゃぐにゃとしたシリコン製のつまようじをつかった。監視カメラからは歯の掃除をしているようにしか見えないように細心の注意を払いながら手紙を取り出して見ると、アルファベットと数字の羅列が記されていた。はじめの二文字が州、次の一文字が郡、さらに次の文字が地区名を示し、数字は番地である。そこが、憎き敵である叔父と裏切り者の母が住む隠れ家だった。翌朝にすすったスープの底にはどろりとしたまずいものがあった。我慢してすべてのみこみ、夜まで待ってからはきだすとかの白鳥も使ったという獄抜け用ウィルスのデータが残った。電子錠に毎日すこしずつウィルスを流し込み、囚人コードを壊した。さらに自分で作ったその破れ目を隠蔽し、ぬけ出す時間をかせいだ。堀の外に出ると、見なれた人影が待っていた。かくして十内24021934の手引きで清十郎12021891は脱走した。


 脱走したのち、セイにはしたいことがなかった。しばらくは逃げ隠れする生活になるだろうということは予想していたが、その予感が的中したのは脱走当日だけだった。十内は、郊外にある偽の拠点へ直行した警察をせせら笑うかのように、中心街のホテルでセイを待っていた。実際のところ、セイは敵討ちを切望していたわけではない。しかし、すっかり組織をのっとった十内は、かつてセイの部下だった者たちがぐるりをかためるなかで悲痛に叫んだ。それによると、セイは監獄中でありとあらゆる屈辱に耐えた上、自身の敵の居場所を突き止めるため、己が身をひらいてまで情報を手に入れた。さらに自分を陵辱した別の棟の囚人に鉄槌を下し、かつての親代わりである十内が臆病にも脱獄協力をしぶっているのを脅迫し、仇討ちこそが我が人生の到達点だと告げそのためにはかつての家族の絆も全て断ち切る覚悟で今ここに立っているのだそうだ。あまりの熱弁に途中からセイは耳をふさいで後じさりしたくなったが、熱気にあてられたかのように頬を上気させ、セイをまぶしそうに見やる部下たちがそれを許さなかった。セイは十内の演技に乗るより他にその場をおさめる手段がないようだった。しかたなく、セイは、その場にいた全員の前で復讐の完遂を宣言した。ふたりきりになったあと、ぽつりと弱音をはくセイに、十内は自身の敵の所在をまでわかったのだから、これはどうしてもやらなくてはならない、そうするのが義務なのだとくりかえした。十内の言いかたは、幼いころ「ぼっちゃん、ハジキを使うのは最後になさい」と教えてくれたころのままだった。娑婆に戻ってこられたのもすべて十内の手駒となるためなのだとセイは思うことにした。
 一週間後、セイの叔父が隠れ家から出て舞台に出演するとの情報が入ってきた。叔父こそがセイの敵なのだ。叔父は支援者たちのディナーショーで歌を披露するらしい。十内の部下に血気だったやつがひとりいた。そいつはセイに支援者もろとも敵を殺すことを提案するが、セイにそのつもりはなかった。そもそも、本当に自分が叔父を殺したいなどと考えていないことははっきりしていた。そうとは答えず、代わりに、支援者はきっと叔父の正体を知らないだろう、そんなやつらを殺してもつまらないではないか、とセイは告げた。むしろ、支援者たちに叔父を裏切らせるほうが面白い。手のひらを返された叔父がどんな顔をするか、楽しみじゃないか。絶望してやけになったあいつをせせら笑いながら殺そう。「さすがセイさんだ」。セイは、叔父も自分も死ぬこと無くこの窮地をやりすごす方策は無いか考えるがいっこうに思いつかない。
 考えているうちにディナーショーがはじまってしまった。ホテルの大広間には舞台も備え付けてある。客はすでに酒が入っている。セイは舞台袖で叔父の手をとる。挨拶の練習をしていた叔父は突然のことに驚いた。セイの顔を認めて誰何の言葉をのみこむと、仇討ちに来たのだと早合点した。叔父は逃げる。セイは袖にとどまろうとしたが、脚がもつれ、逆に舞台に躍り出てしまう。セイは時代劇ふうの仮装である。かもじをつけ、袴をはき、刀をさしている。かみしもがゆれた。今回のディナーショーにはドレスコードがあった。受付を通った者はみな何かしらの衣装を身に着けていたのだ。叔父もやはり軽装ながら日本は江戸時代の武士階級を模した衣装だった。舞台の騒ぎを客たちは余興だろうと期待する。アクシデントへの対応をすっかり心得た係の者がジャパネスクな音楽をかけた。それぞれに照準が合わせられ、あとはスイッチを押すだけである。中途半端にたれていた幕がさっとひらいたとたん、ふたりはスポットライトを全身にあび、万雷の拍手をうけた。


 拍手をうけたあと、清にすることはなかった。今回のインタビューは、クランクイン直後の所信表明の場であり、絶大な人気を誇る監督のファンサービスも兼ねていた。当然、さまざまな会社の広告を背にあれこれ質問を受けているのは監督だった。彼は清の実の叔父であり、映画のなかでも清ふんする復讐を誓う若者の叔父役を演じる。けれんみたっぷりの色男、かつ作中最大の悪役であり、それまで叔父が主に演じてきた熱血正義漢とはかけ離れた役柄が注目されている。いちおう、清の側が勝利するというシナリオでこの物語は終わる。しかし、映画の見所は、あくまでも、主人である清のために奮闘する使い魔たちのやりとりや悪役とのとんち合戦、派手な戦闘シーンであり、主人はほとんど静かに頷き、画面端でちらりと呪文をとなえるだけの存在だ。「ベテランのかたがたにまじって僕だけ初心者ということもあってか、撮影であがりがちですね。ちょっと舌がまわってていません(周囲からの笑い声)……緊張しております(笑い)大先輩たちの演技を教本にして、クランクアップまで誠心誠意がんばりたいと思います(拍手)」彼はインタビューでそう述べたが、この部分が放送されることはなかった。翌日から悪役たちの撮影が順調に進む中、かれはひとり、最後にひとたち浴びせるシーンの練習をしていた。それまで使い魔にたよりきりだった戦法を最後に大転換し、自らの手で討ち取らんと敵に向かっていくという血湧き胸踊る場面である。撮影は終わる。地道な努力が実って、なかなか良い画が撮れたのでは、と清は心のうちで自賛する。ディレクターは全員に花を持ってきている。清も贈られた花束を受け取る。カメラマンは次から次へとフラッシュをたき、叔父のアップを撮った。叔父ばかり、と僻んでいるのがわかったのか、友人の十内が気を使ってカメラマンに耳打ちをする。清もパシャパシャと光につつまれる。しかし、そのファインダーは下げられていて、どう好意的に見ても靴と床しかフィルムには映っていない。
 三日後、映画のコンセプトを明確にするため、清の唯一の見せ場が削られることになった。「君はチャーリーズ・エンジェルズのチャーリーのようなキャラクターなんだ。姿を見せなければ見せないほど、その存在感は際立つというわけさ」。そう説明したのは十内の弟だった。彼は全国行脚の販売師を辞め俳優業に転職し、さらに十内のアシスタントをもつとめていた。役の話が来た時点では主役級とされていた自分の株はみごとに十内にとられていた。十内は単なる友人ではない。古くからの友人だった。おそらく今回の映画で、彼は俳優としての知名度を飛躍的にあげることだろう。今おもいだしたが、十内の弟は、役柄上は例の悪役と似たり寄ったりのひどい男である。きょうび、流行はろくでなしなんだと清は気づいた。清はろくでなしになることに決め、俳優業をほうりだし、ろくでなしのふりをして街をそぞろあるいた。ろくでなしとはどういうものかつかめていなかったから、ただあてもなく歩いただけである。しばらく歩いていると、もともと顔は悪くなかったし、芸能界に片足をつっこんでいることもあってすぐに女に告白された。二ヶ月ほどつきあってから、判をつき、婚姻届を提出した。そのときすでに、妻は叔父に寝取られていたのだった。


 寝取られてしまったあと、清十郎はするべきことがなかった。考えつかなかったというほうが正確だろうか。生まれてこのかた、彼の女運はいちども上昇気流にのることなく、いつだって低空飛行を続けていた。わずかな稼ぎすべてを貢いでは捨てられ、ヒモになっては捨てられる。酔った勢いで叔父の恋人を強姦したときには、格式にこだわる実家が手を回し彼女を清十郎の嫁にしたが、ふたたび叔父に奪い返されてしまった。しかし腹が立たないわけではない。清十郎はとにかく話をつけようと思った。叔父がいない間に家を訪ねた。妻は、ともに暮していたときと同じように紫の呂を身につけおり、その下には黒をあわせていた。すっとのびた白い足はほとんど節もなく整えられていたが、小指の爪がすこし曲がって生えているのだけは誤摩化しようがなかった。どうか戻ってきてくれ、家督を継ぐのは叔父ではなく自分だ。いくらでも贅沢をさせてやれるのだからと懇願するつもりだったが、気がつくと玄関にあった壺を振り上げおろして元の妻を殺していた。そこで初めて自分がほしかったのは、妻ではなかったのだと気づいた。
 そこへ、十内が歩いてくるのがわかった。十内の姿が、玄関の窓、生け垣のすき間から見えたのだ。あわてて清十郎は死体をかつぎあげ、部屋をいくつも突っ切り、勝手口をぬけると目の前にある井戸になげこんだ。それからそしらぬ顔をつくったつもりになって、表の戸口まで歩いて行った。ひょいっと出てきた清十郎に、十内は声をかけた。「ちょうどよかった、お前を探していたんだ」。ものすごい水音がした直後に自失のていで屋敷を出てきた清十郎のことを、十内は怪しむそぶりもみせない。「お伊勢さんに行こうぜ」。江戸から伊勢まで東海道中行く先々で有害難題奇妙面倒を巻き起こしつつも、伊勢神宮の内宮にようようたどりつき、参拝した。ずいぶんあちこちから人が来てるもんだ、請の代表らしい偉丈夫がなにひとつも忘れてはならぬと目を大きくひろげて隅々を眺めているのが見える。ふたりは茶屋でひと息いれることにした。腰掛けの上は畳ではなく日焼けした筵が重ねてある。団子を待ちながら右手をかけたら、脚の部分がささくれだっていたのか、細いとげがささった。十内に借りたとげぬきで、不器用に左手を動かしてとげを抜こうとするも、うまくいかない。見かねた十内がとげぬきを奪い、清十郎の右手をとった。集中している十内の頭に、ぽつりと白いものが見えた。清十郎自身は、あまり年をとった気がしなかったが、九年間も旅をすれば白髪の一本や二本生えてもこよう、と納得した。それから、急に、妻をなげこんだあの井戸はどうなっただろうと不安になった。水質が悪くなってしまったのではなかろうか。洗濯ができないほどではなかろうが、飲料にはむかないものになっているだろう。清十郎は立ち上がった。十内ははねとばされたので、顔を真っ赤にして腕をふりまわした。清十郎はとげのことなどどうでもよくなっていた。帰らねばならぬのだ。怒りをおさめた十内は清十郎の表情が暗いのを気にしているようだったが、それにかまわず帰路を急ぐことにした。
 さて、ちょうど天橋立まできたあたりで、見知らぬ若者に前をふさがれた。たしかに見たことはない相手なのだが、みょうに誰かをほうふつとさせる面持ちでもある。それが誰なのか考えていると、父母の敵、と叫ばれた。かん高く震える声だったので、ふだんなら聞き直したくなるところだったが、なぜかきちんと意味がとれた。こちらが意味を解したことが通じたらしく、若者はすらりと刀を抜き、気迫十分にかまえた。清十郎には、彼が、そう長くはないであろうその人生をすべてこの瞬間にかけてきたこと、日々たゆまず倦まず剣術に励んできたことがよくわかった。しかし、清十郎もなかなかの腕前、そう簡単には殺されない。また、九年間も風邪ひとつひかずに草枕の生活を続けてきただけあって、体力も清十郎のほうが圧倒的に優位だった。打ち合ってから半刻とたたないうち、若者はぜいぜいと肩で息をはじめた。即席の検使役についた十内の提案で休憩をはさむことにした。街道ぞいのため、行き交う人も多く、すでに見物客が波のように押し寄せており、清十郎と若者を中心に十重二十重の人垣ができていた。その中には、あの若者になにやら吹き込んでいるみすぼらしい浪人風情の者もいた。十内の合図で、清十郎もふたたびたちあがり、刀をにぎる。はっと打合ったが、そのとき急に景色がまわった。体が勝手に傾いでゆく。その隙をついて清十郎は討たれる。打ち合いの前に受けた、かわらけの酒、あの盃に一服もってあったな、と清十郎は遠ざかる意識のなかで思った。血を流して倒れた清十郎は、見知らぬ若者から唾をはきかけられた。


 唾をはきかけられたあとにすることはなかった。唾によって生まれたのはツバウミノミコト、ツバウミノミコトの腋から生まれたのはワキデノミコト、とぽんぽんと名前がつけられていくのを見た。誰がその名をつけているのか、皆目わからないのだった。やがて初めに生んだツバウミノミコトの影が薄くなり、ついでワキデノミコトの影がうすくなり、その子の、その子の孫も消えかかったころ、もちろん唾をはきかけられた当人も消えかかっていた。実のところ、ツバウミノミコトが出てきたあたりから早々に影がなくなっていたのだが、なお、意地をはって目をさましていたのである。その意地もつきかけたころ、突然「おお、我が偉大なる祖霊よ」と呼びかけられた。はじめは聴こえないふりをしていたが、あまりにしつこく呼びかけられるので返事をしてしまった。誰だか知らないがそう唱えるのは我が子孫なのだろう。何か用か。しかし呼びかけた相手はその声が聞こえないようで、しばらく祖霊よ、と続ける。なんだか腹が立って、そのまま聞いていると、「祖霊よ、どうか我に力を。我が怨敵を討ち果たすため、この刀に宿り、われわれに御加勢下されよ」とずうずうしいことを言いだした。あいにく、祖霊とやらにそんな力は無い。かれにあったのは、ともがらに唾をはきかけられることで生まれたツバウミノミコトを混沌の海に落とすことなく肱におさめたという事実だけである。しかし、どうも、かれはこの子孫からすれば、とてつもなく大きな力をふるい得る存在になるらしい。その愉快な勘違いに免じて、かたちばかりの加護の言葉がつむがれた。仇討ちに成功したのち、清十郎は社に詣でて祖霊をふたたび拝んだが、そのとき、かれは影も形もなくなっていた。


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