『平成願虎之巻』田中公威

1.
 昼休みの教室でぐーすか寝ていたら強烈なビンタを十数発張って叩き起こされたあげく、大量の睡眠薬を飲まされた。
 何を言ってるのかわからねーと思うが、俺も何されたんだか全然わかんない。
 わかっていることはふたつだけ。
 ひとつは、俺が眠りに落ちるまであといくらもないということ。
 もうひとつは、四月朔日春夏秋冬(わたぬき・ひととせ)――和式カレンダーから引っこ抜いてきたような名前をしたあの女の頭が完全におかしいってことだ。



2.
 春休みの終わりに、ひどい風邪をひいたわけよ。
 おかげで、俺が神之木東高校三年五組の教室に顔を出すことができたのは、新学期が始まってから十日も経った日のことだった。今から数えることちょうど一週間前ね。
 病み上がりで、多少体がダルくはあったけれど、かつて在りし日の俺は、今現在の俺とは違って、快適な睡眠を邪魔されても、両頬を真っ赤に腫らしても、強烈な睡魔に怯えてもいなかったわけで、相対的に見れば超のつく健康体だったと言えるだろう。
 あ、気分が冴えないのはいつものことです。どこかに、炙って吸引したり、葉巻にしてスパスパやったり、静脈注射するだけでビンッビンに元気になれる魔法のようなお薬売ってませんかねー(ゲス顔)。法律? 倫理? シャブっつったらパンクスの常備薬だろうが! まあ、小遣いは全部、Tシャツのコレクションに突っ込むことにしてるから、財布はいつも空っぽだけどな。覚醒剤どころか、砂糖も小麦粉も薄力粉も買えねえ。貧困ダメ絶対!
 灰色の気分と空っぽの財布を胸に、朝、教室に足を踏み入れた俺を出迎えたのは“え? 誰こいつ?”って感じのクラスメイトたちの視線だった。そりゃそうだよねー。フヒヒ、どうもどうも、お初にお目にかかります、兼坂鉄(かねさか・くろがね)です。
 俺は前日に担任教師から電話で教えられていた自分の席へと移動した。窓際の列、後ろから二番目。いわゆる主人公席ってやつだ。
 真新しい教科書とノートを抽斗にぶちこんだあと、鞄を机の脇にかけて欠伸をひとつ。
 隙だらけのツラで数秒待機してみたけれど、誰も話しかけてくる気配がありません。あれれーおかしいなー。どうして誰も「体調大丈夫?」とか話しかけてきてくれないの? みんなソッコーで俺をいないもの扱いしてるの? それでも町は廻っているの? やばいやばい。この状況、犯罪の――濃厚な犯罪の匂いがするよ!
 でも安心して欲しい。春先はいつもこんな感じだから。
 ぽかーんと口開けて待ってるだけじゃいけないってわかってるんだけどねー。俺が雛鳥プレイしてるあいだに、みんな、それぞれで関係築いちゃうんだよねー。難しいよねー、人生って。しかし今年は体調崩しちゃったってことで仕方なかったと思います。次の機会に頑張りましょうそうしましょう。
 でも――あくまで予想だけど、大学での友人作りって、難易度HELLじゃね? まず制服じゃなくて私服ってのが怖い。その日に着ていくTシャツをどうするか悩んでるうちに一日が終わりそうで怖い。軽く見積もって二百枚くらいあるから、かなりの手間だぜアレ。
 あーこりゃだめだ、手遅れです、ご愁傷様、って頬杖をつきながら窓の外に視線をやって、校門へと続く桜並木の薄桃色を眺めはじめたところで、胸ポケットに入れてあったiPhoneが震えて、メールの着信を知らせた。
 まーた楽天市場からかよいい加減にしろよ三木谷テメエ、って舌打ちしてから確認してみたら違った。全然違った。弟からだった。
 ――弁当忘れたでしょ(^_^;)今から届けに行くから。
 ハングリー精神(物理)の塊である俺が、よりによって弁当忘れるわけないだろうがボケ、って思ったけど、確認してみたらしっかり忘れてた。ボケは俺のほうだった。いやーん。学校に弁当持って行かないとか、肉なしでバーベキューするようなもんだろ、常識的に考えて。それバーベキューって言わねーから。野菜炒めパーティとか前代未聞の慎ましさだから。
 メールの送り主である俺の弟――兼坂鋼(かねさか・はがね)は、俺と同じくこの神之木東高校に通ってる。俺より一つ下の二年生で、俺の弟だってのが信じられないくらいいいやつなんだこれが。そのいいやつ具合は、鋼が俺の弟をもう十六年も続けてるって事実が証明してくれるだろう。俺なら三日でバックレたあげく、いけしゃあしゃあとしたツラで三日分の給料要求してる。
 男も女も、オタクから体育会系からリア充まで、誰にでも別け隔てなく接して、誰も嫌な気分にさせない。かといって馴れ馴れしいってわけじゃなくて、踏み込むべきじゃない一線は心得てる。鋼と一緒にいると安心感があるんだよな。だから自然と周りに人が集まるんだろう。中学ン時、生徒会長選挙に出馬を表明したら、対立候補が応援演説を申し出てきた、っていうエピソードは伊達じゃない。
 対するに俺ときたら、教室ではいつもひとり、大量破壊兵器とか降ってこねーかなーって妄想してるんだからたっまんねーなオイ。体育や英語の時間に「それじゃ二人組作って」って教師に言われた時の俺の表情の死にっぷりときたら、きっと人類の想像を絶する。でもな、いつでも俯いてるから、自分の机の天板の汚れには人一倍詳しいんだぜ?
 これで顔立ちがそこそこ似てなきゃ、誰も俺と鋼とを兄弟だとは思わないだろう。内面に限っていえば、俺たちは泥水と珈琲くらいに違う。どっちがどっちか、判断できるよな? ネクスト・クロガネズ・ヒントとか要らねえよな? どれだけ喉が乾いてても、泥水を啜ろうとするやつなんていやしない。スタバで泥水頼んだら店員さんからぬるーい笑顔浴びんぞ、きっと。
 わざわざ弁当を届けてくれるという鋼に、おうサンキューな、ついでに自販機でコーラ買ってきてくんねえ? ってノーモーションかつナチュラルに乞食レスして、携帯弄ったついでにネットでもチェックしておくか、遺伝子の奇跡こと地上に舞い降りた天使こと小倉唯ちゃんの画像スレが立ってるかもしれないしな、って意識高めに2ちゃんねるブラウザを立ち上げたその時だった。
 机の前に誰かが立つ気配があって、
「兼坂くん――」
 女の声が降ってきたんだ。
「お取り込み中のところ申し訳ないのだけれど、少し時間をいいかしら」
 すげえいい声だなって素直に思ったよ。
 涼やかで。落ち着いていて。気品があって。いつまでだって聞いていたくなるような、そんな声だ。たぶん神話の女神もあんな感じに喋るんじゃないかな。
 見えない手指にそっと顎を持ち上げられるように顔をあげた俺が目にした声の主。
 それが、四月朔日春夏秋冬だった。



3.
 いつか誰かが言ってたっけ。
 四月朔日春夏秋冬っつう女は、たとえるならロイヤル・ストレート・フラッシュなんだ、って。
 誰が・いつ・どこで・なぜ・どのように・そんなことを言っていたのか――4W1hが行方不明だが、彼女は完璧にして最強である、というほどの意味だったんじゃないかと思う。
 同じ柄の10、J、Q、K、Aが揃う確率は単純計算で649740分の1。天文学的数字、というほどではないけれど、その役が奇跡的かつ最強の役であるということに異論はでないはずだ。
 それ以外の順位があるのを知らないみたいに、定期試験、実力試験、全国模試――試験という試験で1位を獲り続ける頭脳。帰宅部ながら、各種インターハイ出場選手を向こうにまわして一歩もひけをとらない運動神経。そして、何より特筆すべきは、類まれなる優れた容姿だろう。
 艶やかな黒髪、きめ細やかな肌、信じられないほど整った目鼻立ち――女優がみんな彼女みたいな容姿の持ち主なら、照明係とスタイリストは残らず職業安定所行きだ。
 胸の隆起は非常に慎ましやかではあるけれど、でも四月朔日の場合、胸がないっていうより、スラリとしてる、って感じだなんだよな。ポジティブAカップ、って呼称もドシドシ広めていきたいところだけれど、ここはグッド&オールドかつラブリーにつるぺたと称しよう。
 わぁい、つるぺた! ボク、つるぺた大好き!
 人生山あり谷ありだから、女の胸くらいは平坦でいいんだってホント。
 絶壁に焦がれ、登攀を挑んだ愛のクライマーは、俺が聞き知る限りでも二桁を数えるけれど、誰ひとりとして登攀に成功したものはない。
 なんでも、四月朔日ちゃんってば、告白されると、返事すらしないで、鼻で笑うらしいよ?
 うわ怖っ。何それ怖っ。想像しただけで吐きそう。伏し目がちの「ごめんなさい」も言ってもらえねーのかよ。残念賞も出ないとか、コンプガチャ以下じゃねーか。公正取引委員会に怒られんぞ、その商売。
 異性から告白された時に限らず、部活動に勧誘された時、他愛ない世間話を振られた時、勉強を教えて欲しいと乞われた時、一事が万事セメントみてーな態度だから、恋人は当然として、友達もひとりもいない。
 それじゃ俺と同じく常敗無勝の名門チーム・神之木ぼっちーズの一員じゃん、とか思いそうになるけど、四月朔日の場合、俺と違って、ぼっちとかコミュ障って感じじゃないんだよな。物理的にも精神的にも、背筋がピンと伸びてるんだ。孤高ってそういう雰囲気のことを言うんだろうね、きっと。
 学業も運動も超がつくほど優秀。美人でスタイルもいい。男にも媚びず、女とも馴れ合わず、雪にも夏の暑さにも負けぬ美貌を持ち、オパーイはなく、決して揺れず(乳が)、いつもぺたーんと佇んでいる。
 そんな四月朔日春夏秋冬を指して、ロイヤル・ストレート・フラッシュと形容しても過剰ということはあるまい。特に胸部の形状がトランプにそっくり。だとするなら、俺はせいぜいノーペアってところだろう。勝負にならないどころの話じゃない。というかそもそも、俺と四月朔日が同じゲームをプレイしているかどうかさえ怪しいもんだね。
 いやー、一年、二年とあいつとは別なクラスに配属されてよかったわ。まじでまじで。そうじゃなかったら今頃、己の矮小さを自覚するあまりに、俺の身長、縮みに縮んで百センチ切ってる。科学的に分析されて自重で潰れてくゴジラかっつうの。
 三年のクラス分けが発表されて、四月朔日が同じクラスになったのを知った時も、自分と彼女とは、このまま言葉ひとつ交わすことすらなく卒業するんだろう、ってそう思ってた。
 そう思ってたんだけどねー。



4.
 四月朔日は、自分の体を抱きしめるように腕を組んで、俺を見下ろしてた。
 彼女をそれだけの至近距離で見るのは初めてだったけど、とんでもない美人がいたもんだな、って改めて思ったよ。神様頑張りすぎ。その分の手間、世界平和の構築とかに回せよ。アフリカでは数え切れないほどの子供が飢餓に苦しんでいます……。あと俺が童貞です。
 サラッサラの黒髪ロングヤバい。スベッスベのお肌ヤバい。つうかこいつ何でこんなにいい匂いすんの? 女の子フローラルの正体は香水だよとかヘアコロンだよとか言われてるけどアレ嘘だわ。絶対未知の化学物質出てるわ。じゃなきゃあんなにドキドキするわけないもん。
 四月朔日が吐瀉物でも見るような目つきで俺のこと見てなかったら一発で恋に突き落とされるところだった。危ねえ危ねえ。
「おはよう、兼坂くん」
 呆けている俺にむかって四月朔日が言った。その親しげな感じときたら、飛び出しナイフといい勝負だった。もしあれが挨拶なら、腰の入ったブローをボディにぶちこむくらいまでは挨拶の範疇になるだろう。
 おはよう、って俺は返した。約一年ぶりに母親と看護師さん以外の女と話したにしては、吃ったりキョドったり甲高い声でマンマに助けを求めたりせずに、落ち着いてうまくやれたはずだ。わぁい。褒めて褒めてー。
 そんな愛くるしい欲求も虚しく、四月朔日は俺を冷たく見下ろしたままだった。んもー。何よその態度。素直になれないコには甘くて切ないご褒美をあげないぞ。僕の唇なしで今日を凌いでいけるの?
「初めまして。私は四月朔日春夏秋冬。――あなたのクラスメイトよ」
 これには驚いた。
 何に驚いたかって、彼女ほどの有名人ですら自己紹介の必要を感じるんだってことに驚いた。
 地面を指さして、この惑星の名前は地球です、って言われたようなもんだ。エンジントラブルで不時着した異星人じゃないのよ、俺。
「あなたとお話したいことがあるの。時間を都合してもらっても構わないかしら」
 はあ、と俺は頷いた。
 え? 話? 何? お高い壺でも売りつけられるの? でもこの態度、物売るってレベルじゃねーぞ。新手の詐欺――ツンデレ商法か何かか? べ、別に英語教材なんて買って欲しいわけじゃないんだからね! 孫会員を連れてくれば、そのヒトの購入金額の一割があなたに還元されるなんてこと、あ、あるわけないじゃないっ!
 俺の混乱度メーターは、早くもレッドゾーンまで振り切れてた。目とかぐるぐるしてたかもしんない。瞳孔とかチャクラとか開いてたかもしんない。
「それで、なのだけれど――」
 と、四月朔日は言いながら、視線を横にずらして教室内を一瞥した。
 俺もそちらに視線をやる。
 ある者は宿題をするシャーペンを止め、ある者は友人とお喋りしていた口を半開きにして、俺と四月朔日を見ていた。四月朔日が俺に話しかけるってのは、彼らの時間を停めてしまうくらいの大事件だったってわけだ。もし唐突にキスとかしてたら、教室はデス・ノートが猛威をふるった後みたいになってただろう。どんだけだよ、俺と四月朔日との差。社会的落差。
「ここでは多少ならず話しづらい事柄なの。場所を変えましょう。そうね――ベランダが良いわ。ベランダで、お話しましょう」
 俺の返事も聞かず、四月朔日は、教室の後方にあるドアからベランダへと出ていってしまった。
 椅子に座ったまま阿呆面を晒しているわけにもいかず、仕方なく、俺はその後を追った。浴びせられるクラスメイトの視線の鋭かったこと痛かったこと。iPhoneを左胸のポケットにしまってなかったら確実に死んでたね。
 さりげに生存フラグを立てることもできる。そう、iPhoneならね。ドヤッ。
 スティーブ・ジョブス、R.I.P。あれ、ジョブ「ズ」だっけ?



5.
 ベランダに出ると、三階だというのに春が匂った。
 湿った土、萌える植物、柔らかな陽光が複雑に絡まりあった匂いだ。冴え冴えとした空の群青に映える桜の白桃色が目に暖かかった。人をみんな写真家にしてしまえそうな素晴らしい天気ではあったが、俺が四月朔日とサシで話をする背景としてはできすぎていた。
「えーと、話って何すか?」
 首筋を掻きながら、俺は尋ねた。
 珍奇な部活動に勧誘されたり、「つきあって」って言われて驚いてたら買い物のことだったり、幼稚園の頃にしていた結婚の約束を果たしにきたり、夜店ですくった金魚の生まれ変わりだったりする青春ラブコメこそが望むところだったが、四月朔日が返してきたのは、ギロリと音がしそうな睨めつけの視線だった。
「ぼさぼさの髪、猫背気味の姿勢、知性の感じられない言葉遣い――」
 四月朔日は吐き捨てた。
 おいおい、ひでー風体の野郎がいるもんだな、って思わないとやっていられないくらいにそれは俺のことだった。認めたくないものだな、自分の特徴というものを。でも学ランの下のTシャツは貶されなかったのでよしとする。この世知辛い現実で、希望ひとつ、み〜つけた!
「きっと、あなたのような人間が、女子校に忍び込んでスクール水着を窃盗、果てはそれを着用しながらの公然排泄などという度し難い変態行為に及ぶのでしょうね……」
 もしもし、病院ですか。俺の青春ラブコメが全っ然息してないんですけど。
 四月朔日は、ふたたび自分の体を抱くように腕を組んだ。「早く話を済ませてしまいましょう。あなたに見られている――それだけで妊娠の危険を感じるわ」
「ねーよ。どんな生殖システムだよ。せめて身の危険くらいにしろよ」
「己が危険であることは認めるのね」
 俺の常識的な突っ込みに、四月朔日は腕に力をこめて半歩後ずさった。
「万が一、私のような見目麗しい女子に対して一切の劣情を催さないのだとしたら、それはそれで、あなたが禽獣にも劣る変態性欲の持ち主であることの証左に他ならないわ。どちらにしろ、危険を感じるわね……」
 さらに半歩下がる。
 お前の舌鋒のほうがよっぽど危険だっつうの、って思ったけど、それを口に出すと、要らぬ罵りを浴びそうだったのでやめておいた。俺は変態じゃないから、被虐趣味者の素質はない。読む同人誌は全部イチャラブ和姦ものだしな。ななせめるち先生、「パパ×まどほむ」の続編よろしくオナシャス!
 って、四月朔日と俺との初会話はまあ大体そんな風だった。聞きしに勝る棘のある態度。美貌、完璧、孤高――俺は四月朔日に対して抱いていたイメージに、傲岸と不遜の二単語を付け加え、それをもってマスターアップとした。不具合があれば修正パッチで対応します。
「もう一度、自己紹介をさせてもらうわ。私の名前は四月朔日春夏秋冬。あなたと同じ三年五組の所属で――学級委員長を務めさせられているわ」
 学級委員長。へー。言われて見てみれば、四月朔日の左腕には、級長であることを示す刺繍入りの腕章が巻かれていました。ごめんなー、正直、顔と虚乳にしか注意いってなかったわ、ごめんなー。
「本当は、こんなもの、つけたくはなかったのだけれど――」
 四月朔日は毒でも吐くように忌々しげに言って、窓ガラスごしに教室内を見やった。怒気と殺気を多分に孕んだその視線に、こぞってこちらをうかがっていたクラスメイトたちが慌てて顔をそらす。
 見知らぬ顔の多い新クラスにあって、知名度がゆえに級長の役職を無理やりに押しつけられた、というところだったんだろう。無名人も大変だけど、有名人も大変だ。
「最低だわ。今年度は受験もあるし、他にしなければいけないこともあるというのに……」
「しなければならないこと?」
「あなたには関係のないことよ。下衆の勘ぐりはやめて頂戴。心底から不快だわ」
 チッ、って。四月朔日のやつ、舌打ちで俺の質問はねつけやがった。
 思わせぶりな台詞言っておいて、こっちが一歩踏み込んだら下衆呼ばわり。そうかよそうかよ。でも、俺が今晩ベッドでどんなこと考えるか知った後でも強気な顔で気丈な言葉を吐いていられるのかニャ? ニャニャニャ? 強気っ娘強制猫耳メイド化大正義! その尻尾が一体どこから生えてるのか、とくと確かめさせてもらおうじゃねえか……。上目遣いで哀願しても許してやんニャいよ?
「で、話って何?」空想上の四月朔日春夏秋冬の空想上の飼い主であるところの実在の人物である俺は訊いた。「何かして欲しいことでもあんの?」
「して欲しいこと――いいえ。あなたのごときに何かして欲しいことがあって、ここに来てもらったわけではないわ。そうではなく、あなたが浅ましくも考えていることの逆よ」
「逆?」ぼっち系男子を強制猫耳メイド化して飼いたいってこと? おいおい思想警察がいたら捕まんぞ、その先進性……。日本は美しく保守的な国です。
「そう。あなたには何かをして欲しいのではなくて、何もしないでいて欲しいの」
 意味がわからない、って思って、数秒間頭をぐるんぐるん回してみたけれど、やっぱり意味がわからなかったので、俺は正直に「ごめん意味がわからない」って言った。俺の宝貝無知の知」はしかし、四月朔日に、蔑みの表情を浮かべさせただけだった。あ、宝具って表現のほうがナウいですかね?
 仕方がないわね、と溜息をついて、四月朔日は解説をはじめた。
「新学期が始まって十日。あなたにも感じられたと思うけれど、三年五組の人間関係はもう固まっているわ。それも、とても優良な形でね。これなら、諍いごとやいじめも起こらず、そのために私が手を煩わされることもない――」
 ただし、と四月朔日は言った。
「それはあなたと私とがクラスの輪の中に入ろうとしなければ、の話よ。彼らの関係は、長らく休んでいたあなたと、頭の出来が違いすぎる私とを抜きにして、すでに完結を見ているの。それなのに、寂しさに耐えかねたあなたが友人を作ったとすればどうかしら。その完全性は損なわれてしまうかもしれない。私はそれを望まないし、彼らもそれは同じ」
「要は――友達を作ろうとするな、ってそういうことか」
「これまでの数年間と同じように過ごせばいいのだから、簡単でしょう。――端的に言わせてもらえばね、兼坂くん、あなたの社交スキルの低さはクラスの足を引っ張るの。墨汁を一滴垂らしただけでも、その水は飲めなくなってしまうのよ」
 まったく、と芝居がかった溜息をつき、四月朔日は肩にかかった髪を掌で払った。腰に手をあて、目のギロリで俺を真正面から突き刺す。
「大人しく不可触賤民していなさい。あなたには列外が似合いよ」
 どうも、俺の身辺については調査済みらしかった。
 小六の時、女子の縦笛を盗んだ疑いをかけられて、クラス会議という名の弁護士のいない裁判にかけられ、あっけなく死刑判決をくらった事実も知っているのかどうか尋ねたかったが、その勇気はなかった。そんな蛮勇があったのなら、縦笛を盗んでぺろぺろしたりせず、玉砕覚悟で告白をしにいっただろう。ついでに吊し上げを喰らっている最中に、彼女の上履きの靴紐を自分のそれと交換したことも正々堂々カムアウトできていたはずだ。
 もう二度とあんなことしないよ(ボイスオーバー風に)。
「わかった」と俺は頷いた。
「その“わかった”は、私の言うことを了解した、という言明かしら。それとも、私の言うことに従う、という意思表示かしら」
「今年は誰かのアドレスを携帯に登録するって野望を諦めるってことだよ。ついでに、恋人と食べるクリスマスケーキも忘れずにキャンセルしておく」
 瞠目せよこのユーモア。刮目せよこの決断力。どうですか、「授業」と、「タイプの違う女の子二人から同時に告白された時のシミュレーション」とが同義語になってるだけのことはあるだろ? どのみち、友人なんて作れやしねーんだ。すべての平行世界がが俺=ぼっちという状況に収斂するんだ。どうせなら俺は、四月朔日に命じられたから一人でいるんです、ってほうを選ぶぜ!
「いい返事が聞けて嬉しいわ」
 四月朔日はそこで初めて笑みを浮かべた。
「私の望む通りの――完璧な返事。それを口にできたというだけで、あなたの評価を多少情報修正することもやぶさかではないわ。知っていて? この世では、完璧なものだけが愛される価値を有するのよ」
 それは確かに完璧な――男なら誰だって恋に落ちてしまうこと間違いなしの、完璧な笑顔だった。その時、俺は改めて、自分がロイヤル・ストレート・フラッシュと話してたんだ、って実感した。
 途端に訪れる気まずさ。据わりの悪さ。生まれてきてごめんなさい感。
 みなさん、心してご覧ください。これが、近年まで幻想上の生物だと考えられていた真性非モテの姿です。
 見ろ……これが夜に萌えアニメを観るという禁忌を犯した罪人の姿だ……! ティヒヒ、鉄知ってるよ、リア充はこういう胸キュンを感じた時、三秒フラットでキス→セックスに持ち込めるって。いいなー羨ましいなー。女の子のお部屋とかお邪魔してみたーい。
 えーと、って俺は後頭部を掻きながら言った。
「話が終わったんなら、教室に入っても構わないかな。もうじきに弟が忘れ物を届けてくれることになってるんだ」
「忘れ物?」
「ああ。弁当を家に忘れてさ。学食を利用しようにも、財布には二十三円しか入ってないから。もしも受け取りそこねたら、飢え死にしちゃうよ」
「呆れるわね」四月朔日は眉を立てた、「そんな少額の金銭ならば、むしろ持ち歩かないほうがマシのように思うわ。運搬に要するカロリーで赤字が出そう。それともあれかしら、人の輪だけでは物足りなくて、資本主義からも逸脱することを目指しているのかしら?」
「罵りの言葉よりも、頼みを聞き入れたことに対する対価を賜りたいところだね」
「対価――?」
「ああ。何かを得るためには同等の対価が必要。等価交換の法則、化学の授業で習ったろ」
「対価――御礼――謝礼――」
 四月朔日は呻くように呟きながら、俯き、顎に手をあてた。
「ごめんなさい。私としたことが、それについては失念していたわ。完璧に、失念していたわ」
 どんなものが望ましいかしら、と、傍目にも真剣に悩み始めた四月朔日に、いやいや冗談だよ、って言ってズラかろうとしたその時、窓ガラスが軽くノックされる音が聞こえた。
 顔をむけると、ガラスの向こう、教室内に鋼がいた。
 鋼は、ニッと笑い、弁当箱入れを掲げた。
 上級生の教室だというのに、ちっとも萎縮してる様子がなかった。さすが、肝が据わってる。俺なんて、自分の教室においてさえ、ステルスモードでようやくサバイブしてるっつうの。その割に、苦手な数学の時間は、よく教師にタゲられて大恥かいてんだけどな。死ぬ。もう死ぬる。
「はいこれ。お届けー」
 ガラガラ〜って口で効果音をつけながら窓ガラスを開けた鋼は、俺にコーラの缶を抛った。次いで、ぐっと腕を伸ばして弁当を押し付けてよこす。
「朝から悪かったな」
「大丈夫大丈夫。気にしないでいいよ。僕たち兄弟じゃん」
 そう言って、鋼は笑顔を見せた。うおっ、眩しっ。
 俺の弟がこんなに爽やかなスマイルなわけがないって思ったけど、俺の弟は鋼をおいて他にはいないわけだから、俺の弟の兄貴が女子連中から「キモい」「挙動不審」「目が死んでる」「視姦されている気がする」「何を考えてるのかわからない」「Tシャツが人間入れて歩いてる」って陰口を叩かれまくってるわけがないって言ったほうが正確だっていう壮絶な結論に達して、頭痛と吐き気を催した。
 あのさ鋼、と俺は言った。
「来たついでに金貸してくんない? 帰りにコンビニでブラックサンダー買って喰って帰りたいんだわ」黒い稲妻。選ばれし知的強者のチョコレート菓子。これ以上格好いい名前の食いもんがあったらおせーて欲しい。登校した自分へのご褒美。スイーツ(笑)
「え? 鉄兄ィ、三十円ないの?」
“今まで太陽見たことないの?”みたいな口調で言われた。
「うん。二十三円しかない」
「二十三円って実質ゼロ円じゃん」
 携帯の月々の支払いみてーに言うな。あと、タダより高いものはない、という金言に従えば、俺はお前よりも金持ちなのではないかどうか、という逆説が心に浮かんだが、それを口に出さないくらいには、俺の中に理性が残っていた。あとタダの二十三円じゃねえし。十円玉は二枚ともギザ十だし。崇めろし。奉れし。
 はいこれー、って鋼は財布から出した五千円を気前よく俺に渡してくれた。
 ありがとう、そしてありがとう。
 やってくる客と他の従業員が女の子オンリーの空気系スイーツパーラーでバイトすることになったら、その給料で今まで借りた十五万とあわせて返すね、絶対だからね、って俺は心の声で鋼に約束しておいた。口にはしない。言葉にすると気持ちは嘘になっちゃう、ってよく言うだろ。この世にひとりきりの兄弟に嘘をつくなんて……俺、そんなことできないよ……。
「それじゃ、お届け完了ってことでー」鋼は四月朔日にチラッと視線をやった。「何かお話の最中みたいだし、これ以上邪魔してもアレだから、僕、自分の教室に戻るよ」
「おう。またな」
 ガラガラ〜って効果音をつけて窓を閉めた鋼は、出入口ンところで室内の人間に軽く会釈をしてから、教室を出ていった。すぐに、熱っぽい目をした女子たちがスクラムを組んで何事かを話しはじめたよ。桃色オーラを発していたところからすると、あれはアルバニアの経済政策についての議論をしていたわけじゃないだろう。鋼くん、もってもてー! ひゅーひゅー!
 俺は蓋を引き開けたコーラをがぶがぶ飲みながら鋼の背中を見送った。小春日和にあって飲む冷えた炭酸飲料、また美味からずや。僕、甘いもの、ダーイスキ。どんとこい糖尿病! インスリン注射ってシャブ射ってるみたいで格好いい! 自称・神之木東のシド・ヴィシャスとしてはブスブス皮下注射したいと思わずにいられないな。
 嘘よ、って震えまくりの呟きが聞こえなかったら、そのまま糖尿坂を駆け上がってたと思う。あの果てしなく遠い糖尿坂をよ……。
 缶から口を離した俺は、呟きの主であるところの四月朔日に目をやった。
 あいつの表情を、一体どう表現したもんかね。両手をぐーの形にした彼女は、唖然、呆然、愕然、驚愕、絶句――そんな顔をしていた。そういう顔をしている彼女は、ロイヤル・ストレート・フラッシュではなく、ただの四月朔日春夏秋冬だった――みたいなことを書けば純文学の香りが漂うんだろ? ならそれでいいや。それで頼む。
「嘘、って何がッスか?」
 知能指数100(2進法カウント)って口調の俺の質問に、遠く火星あたりまで飛んでいた四月朔日の精神が体に戻ってきた。白い頬にさっと赤みがさしたと思った次の瞬間、俺の視界に閃光が弾けた。衝撃。弁当が手から落ち、コーラの缶が転がり、残った中身がぶちまけられた。
「な、なんでもないっ――」
 真っ赤な顔でそう叫んだ四月朔日は、さっさと教室へ入っていってしまった。
 ドアがバタンって閉まってからようやく、俺は自分がビンタされたんだって気づいた。
 両親も含め、誰かから暴力を振るわれたのは、それが初めての経験だった――というフリは「親父にもぶたれたことないのにっ」という使い古されすぎてもはや死に体のパロディを導出するための大嘘で、俺の親父は躾として容赦なくぶん殴るタイプのヒトなんだよねー。
 県警の機動隊の隊長さんで、体クソ鍛えまくってるから、二の腕とか信じらんねーくらい太い。殴られるたびに首もげてないか心配になるもん。思わず辺りを探し回しちゃうもん。幸いなことに吹っ飛んでたことは一度もないけど、いい加減次あたりマズいと思う。もげる。数回転したうえでちぎれ落ちる。
 やれやれ、Tシャツ買うための金、親の財布からこそこそ盗むのも命がけだぜェ……。
 四月朔日のパーパンチは、親父のグーパンチに比べればこんにゃくを頬にぺたんとあてがわれたような軽いもんだったけど、比べなかった場合には、一般的に「強烈なビンタ」と呼ばれて然るべき代物であったので痛かった。ちょー痛かった。さすが運動神経抜群だけのことはありありアリーデヴェルチ。つーか、なんでもないなら他人に危害加えんなよって話だし、他人平手打ちするのはどう考えてもなんでもなくねーだろ! 警官の息子にビンタ喰らわすとかテメエ正気かよ! 国家権力と虎の威を借る狐舐めんな! パパに言いつけんぞ!
 右頬はずきずき疼いたし、覆水盆に返らずってことでコーラはもう飲めなかったし、クラスメイトの視線は痛かったし、昼休みに蓋を開けてみたら案の定弁当は片側に偏ってしまっていたし、そのわずか一週間後には、四月朔日から十指に余る数の平手を頂戴する波乱の命運を抱えていたわけで、俺という少年はどう考えても不幸だったニャン。



6.
 それからこれまでの一週間は大変だった。
 四月朔日の席、右斜め後ろなんだけど、ずーっと俺のこと見てるんだもん(除く土日)。
 何ていうのかな、見えない犬がケツに噛み付いてる感じがあったんだよ。最初は俺の気のせいかなって思ったけど、視線を感じて振り返る→四月朔日が慌てて目をそらす、っていうコンボを初日に飽きるくらい続けて、あーコレいつもの自意識過剰じゃないんだってわかった。
「お前俺のこと好きになっちゃったんダロッ☆」って四月朔日のスベスベほっぺorぺたんこお胸を人差し指でつんつんしにいかなかったのは、戯れにでもンなことしたら関節をありえない角度にひん曲げられてマジモンの謝罪汁を絞り出されそうだったからだし、勉強についていくのに必死だったからだ。
 社会に出たくない僕は大学進学一択! 働いたら負けだって思ってるうちは三流。働いたら死ぬって思ってせいぜい二流。働かないって決めてようやく一流。ゆくゆくは靴の履き方を忘れるくらいのニートになりたいと思ってる。
 つーか、四月朔日ちゃんよ、お前実は俺を見てるわけじゃないだろ。俺というレンズを通して鋼きゅんを見てるんだろ。よおく知ってるぜ、そういうの。パターン:ピンク、思慕です!
 バレンタインデーの日、俺が何回「こ、これ、鋼くんに渡してくださいっ」ってお洒落な包装カマされた小箱渡されてると思ってんだよ。あの娘っ子どもと同じ目つきなんだよ今のテメエは。どうせ、あいつらと同じで俺の名前も言えないんだろ? 勘弁してくださいよもー。
 なお小箱の中身は、ゴール地点に到着するより前に俺に貪り食われた模様。好きになった相手がチョコレート苦手だってことくらいは調べようよ。もし鋼をオトしたかったら――そうだな、あいつ動物好きだから、チェシャ猫でも捕まえて贈ってやれば?
 って、アドバイスしてやろうにも、俺を注視する四月朔日は日に日に鬼気迫ってきてる様子で怖くて話しかけるのなんて到底無理な相談だった。もはや、チェシャ猫だろうが百万回生きた猫だろうが長靴を履いた猫だろうがキティちゃんだろうがミッフィーだろうが、鉄串ブッ刺して最大火力のガスバーナーで数瞬炙ったあげく、頭部からわしわし食っちまいそうな感じだ。
 勇気を振り絞って気づいてない振りをしてあげるのがせいぜい。緊張感ヤバすぎで放課後を迎える頃には、俺の尾てい骨のあたりは汗でビショビショです。はわわ、これじゃ腸液お漏らししちゃったみたいだよお〜(>_<)ふええ〜、おとなよーのおむちゅちゅどこー?
 おかげで勉強全然手につかねえし。何しに学校来てんだよ俺。
 繊細な神経ブレイカーこと四月朔日は、とうとう昨日、目の下にクマを作って登校してきた。朝っぱらからユンケル黄帝液ダブルで飲んで、溜息をつきながら目頭を揉む女子高校生なんて、僕、見たくありません。あのな、女子高生ってのはね、なんというか救われてなきゃあダメなんだって。
 それでも、稀有な美貌に一切の曇りはないと感じられるのだから素晴らしいね。
 むしろ、翳りを孕んだ表情は、年不相応な凄艶さえ醸し出していた。たまりかねた男子生徒が、下心丸出しで「体調大丈夫?」って話しかけていたけれど、完全無視されて心に深い傷を追うバッドエンドに至り、全世界を震撼させた。
 そして迎えた本日は曇天なり。
 確かにセットしていたはずの目覚ましアラームが鳴らなかったり、手を滑らせて飯茶碗を落として割ってしまったり、めざましテレビの星占いで射手座が最下位だったりと、朝から凶兆には事欠かなかったけれど、Q.自分だけは絶対に破局的運命から逃れられると信じています。この考えは間違っていますか?(十七歳・男・高校生) A.自信は頼もしいですが、いかんせん根拠が薄弱です。睡眠薬を大量に服用させられ、呂律が回らなくなったりとかしてみましょう。頭のほうも全然回らなくなるかもしれませんが、ウスラトンカチはいつものことなので安心してね。
 やー、絶賛思いつめた顔の四月朔日が教室に入ってきてすぐに、これマズいかも、とは思ったんだよな。今日こそは何かされるかも、って。ひとつひとつの仕草に転覆寸前のボートか導火線に火のついたダイナマイトみてーな危うさがあった。
 髑髏マークのシールが貼られた謎の小瓶を鞄から取り落としたのを目撃した時点で、保健室に駆け込んで、酷い生理痛になった旨を訴えて早退していれば、あんな――こんな惨劇を招くことはなかっただろう。すると悪いのは自己防衛をしてなかった俺か? って考えに辿り着きそうになるけど、レイプ被害者とレイプ犯とでどっちが悪いかで悩むくらいなら警官の息子なんてやってねえっつうの。悪いのは間違いなく四月朔日悪人正機を唱える浄土真宗でもあれほどの悪を救済することはできまい。
 身の危険を感じながらも、ああして――こうしてあえて死地に踏みとどまったのは、午後に数学の授業があったからだ。えーと、数学って知ってるかな? すげー難しい学問なんだけど。
 あれは中二の時だったかな、小テストの計算方法が全然わからなくて、すべての解答欄に「42」って書いて提出したら放課後に呼び出しを喰らった。人生、宇宙そして万物についての究極の疑問の答えであるはずの数字が通用しないとか難しすぎだろ、って思って思い続けて早五年目。
 心せよ、汝が数学を覗きこむとき、数学もまた汝を覗きこんでいるのだ……。
 友人のいないキング・オブ・ぼっちの身分では、誰かにノートを見せてもらうこともできず、一度でも休んだら、そのまま振り落とされて置いて行かれる。社会進出がデエッキレエな学生中毒患者として留年は望むところだが、弟と同学年になるというのは、ちょっとさすがに勘弁していただきたい。恥ずい。
 そんなわけで、俺は、今日も今日とて背中に刺さる四月朔日の視線にガタガタ震えながら、大丈夫だ、大丈夫だ、って自分に言い聞せて耐えるより他に方法はなかった。むろん、本当に大丈夫だったのなら、こうして回想なんてしてない。
 俺が睡魔に蕩けゆくNow-Hereに至る過程を、それではご覧いただこう……。
(続)